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 ちゃんとお友達を作るのよ。  いつも笑顔でいて、困っている子がいたら助けてあげなさい。  母は、他人と交わろうとしない郁也に、必死にそう言い聞かせた。  新しい学校は、前のところと大して変わりはなかった。だからこそ、郁也は「行こう」という気になれなかった。クラスの中に、郁也の気持ちや思いを共有できそうな子は一人もいないだろう。  朝早く母が出かけていくと、郁也はランドセルを片付けた。そのあとは自室の本棚の「アンの青春」を手に取る。部屋の明かりをつけて、ソファに腰かけて読み出した。  何かを見ていると、そこに秘められている物語に気づく。その物語は一つの世界だ。身の回りのいたるところに物語が、世界が隠されていることを、郁也は知っている。だからそれらを堪能することに忙しく、友達を作ろうとは思わなかった。何より、いなくても不自由しないものを作る時間が惜しかった。  母には、受け入れられないけれど。  昨日、玩具屋で見つけた人形だって。脇に置かれているカードの説明を読んだ時、ふわーっと頭の中に新しい世界が広がっていくのを感じた。それなのに、母は買ってはくれなかった。そして郁也を𠮟ったのだ。  今朝起きると、母は昨日よりも優しい目で丁寧に言った。 「郁也、お母さん、昨日は怒りすぎちゃった。ごめんね。あんなつもりはないの。郁也は色んなお話を考えてて、すごいと思う。でも、これから先、お友達も必要になる時が来るから。学校にもきちんと行ってほしいの」  郁也は、母とわかり合えないことを、もうすでに知っていた。  アンの青春から顔を上げ、郁也はふと、思い付く。あの王子様を、もう一度見に行こう。  そっと玄関の扉を開けたその時、人の姿が見えた。  隣の家のお姉さん。  郁也は息を呑んだ。彼女が振り返り、郁也に話しかけてくる。 「こんにちは」  穏やかな笑顔でそう言われて、郁也もぎこちなく返す。 「こんにち、は」 「君、昨日駅前の玩具屋さんに来てたよね。私のこと、覚えてる? レジにいたんだけど」 「覚えてる」  それには郁也も気づいていた。お隣のお姉さんだな、と思いつつも、王子様の人形の方に気を取られ、まともに挨拶する機会がなかった。  名前を聞かれ、郁也と答える。それを聞くと彼女は笑みを深め、自分はえみかと名乗った。 「郁也君、ちょっと聞くけど、今って学校に行く時間だよね?」  郁也の心臓が、どこんと跳ね上がった。怒られる、と咄嗟に目を閉じる。そんな郁也を見て、えみかは噴き出した。 「なんか、怯える猫みたい」  その後、柔らかく微笑む。 「何してたの?」  予想外の反応だった。郁也は戸惑いつつも、正直に答える。 「……アンの青春、読んでたの」 「ああ、アンシリーズの第二巻か。私は小四のときに読んだな。もう読むなんて、郁也君すごいね。どのキャラクターが好き? 私はダイアナ」 「僕は、やっぱりアンが好き」 「いいよね、アン。私も好きだな」  そっかあとえみかは頷き、それじゃあね、と手を振った。 「また、うちの店にも来てね」 「今から行くところ」  郁也が答えると、彼女は、本当? と眉を上げ、嬉しそうに目を細めた。  もしかしたら、この人は普通の大人じゃないのかもしれない。郁也に友達作りを強要する母とは違う人なのかも。  郁也は、父を知らない。けれど、今目の前にいるえみかは、父ともまた違う、大人の中でも異質な人なのだろうと思った。
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