幸福の呪い

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 幼馴染が交通事故に遭ったのは、ひどい猛暑日の午後三時頃だった。僕がちょうど近所のカフェで仕事の資料を作成していた時のことだった。  窓際の隅の席でブラックコーヒーを傾けた時、室内にいるのに甲高いブレーキ音が聞こえてきたのをよく覚えている。その後、凄まじい衝撃音が響いて、カフェ内にいた客がざわついたことも、記憶に新しかった。  なんだか嫌な予感がした僕はそそくさと会計を済ませてカフェを飛び出した。まさか、交通事故に遭ったのが二人の幼馴染だとは思わず、凄惨な事故現場に足を運んでしまったのだ。  それがきっと、生きてきた中で最も不幸な出来事だった。 「……香奈(かな)、入るよ」  あの日の記憶を辿りながら、僕は白い扉をノックした。苦いコーヒーの香りと煤けた嫌な臭いが消えていき、代わりに消毒液のようなにおいが鼻腔をくすぐった。 「どうぞ~」と室内から呑気な声が返ってくる。  扉を開けば、頭に痛々しく包帯を巻いた香奈がベッドに座ってスケッチブックと向き合っていた。茶色い長い髪が、彼女の手元にまで垂れている。むむ、と唸りながらペンを握った彼女の様子が気にかかり、僕は近くのパイプ椅子に座って声をかけた。 「何を描いているの?」 「絵」 「それは分かる。何か描きたいものがあったのかなって」 「なんだろ……風景?」 「風景?」  聞き返せば、香奈がこくんと頷いた。  見てもいいかと聞けば了承の返事が返ってきたので、横からスケッチブックを覗き込む。そこに描かれていたのは、雑な鉛筆の線だけ。黒と水色、それから緑色が使われている。かろうじて、それが高い所から見た海辺の景色なのだろうというのは察しがついた。 「なんかね、ふと頭に浮かんだ。私が行ったことあるとこなのかなぁ」 「そうかもしれないね。ちなみに、この景色に対して何か感じたこととかはあった?」 「うーん……。ワクワク? いや、緊張かなぁ。よく分からないけど、楽しい系の気持ちなのはなんとなく理解できるかも」 「……そっか」  覗き込むのをやめて、僕は椅子に座りなおす。膝上に置いた手は、無意識のうちに拳を作った。  香奈との初デートの場所だ。  すぐにわかってしまった僕は、思わず唇を噛んだ。香奈が感じたというワクワク感や緊張の類は、初めて恋人と訪れた旅行先の景色に対する楽しさなのだろう。初めてのデートだ、楽しい気持ちも緊張する気持ちもあって当然だ。  彼女は、そこで何をしたか、何を思ったかなんて、ひとつも覚えていないのだろうけど。
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