「唇に、君の体温がのこってる」

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 僕のポケットには、ダイヤの指輪が入っている。この二年間ずっと。 瑠璃(るり)さんに渡せなかった”約束”だ。  札幌の秋は早い。  九月になるともう公園には秋の花が咲く。エゾノコンキク、オトコエシ、ヤマハハコ、ヨツバヒヨドリ。  瑠璃さんは花が好きだった。でも花の名前はおぼえない。全部、僕に聞くんだ。  去年の秋、瑠璃さんはもう車いすでしか動けなかった。僕が押しながら病院の庭を散歩するとすぐに、 『これ何の花、基(もと)くん?』 そして僕が答えられないと瑠璃さんは口をとがらせる。その様子がかわいかった。  あれから一年後。  僕は一人で秋の公園の匂いをかいでいる。瑠璃さんは僕を置いていってしまった。  花を見ながら歩く。公園の中を足元も見ないで歩く。  そのせいだろうか、僕は小さな段差で足をすべらせてしまった。  ころぶ。いたい。  立ち上がった瞬間、空気が変わっているのに気が付いた。秋の澄んだ空気じゃない。もっと熱のある、重い空気だ。  夏の終わり。まだ秋が来る前のぐっと重みのある空気。  僕はあたりを見まわす。花が変わっている。さっきまで咲いていた純白のオトコエシではなく、ピンクの花が咲いている。  百日紅。つるつるの幹が瑠璃さんの大好きだった木。 「そんな、ばかな」  この公園の百日紅の木は僕と瑠璃さんにとって大切な木だ。なにしろ十年前、まだ高校生だったぼくが初めて瑠璃さんに告白した場所なんだから。  もっと言えば、二年前に僕のプロポーズが中断された場所でもある。瑠璃さんの病気がわかったときだった。  ふいに人の声が聞こえた。声が近づく。ちょっと低い女性の声。  ん? この声。まさか瑠璃さん?  いやいやいや、ありえない。瑠璃さんはいってしまった――行ってしまったはずだけど。ほんとうに瑠璃さん・・・・だ。  軽く飛ぶような歩き方。ちょっと癖のある笑い方。低い声。僕の愛した人が、木々の間から歩いてくる。  嘘だろ。まぼろしだ。  だけど声が聞こえる。  この一年、瑠璃さんを失ってからひたすら僕が恋こがれた声が流れてくる。  夏の終わりの風に乗って。  百日紅の甘い香りに乗って。  僕は体を小さくして茂みの隙間から瑠璃さんを見た。そして瑠璃さんと一緒にいる男を見る。  僕だ。  瑠璃さんの隣にいる僕は幸せそうだ。この世の最上の愛情を、無防備に浴びている男の顔だ。  二人は百日紅の木の前で立ち止まる。  ああ、これは二年前の僕たちだ。僕の心臓がキュッとなる。  プロポーズしようと思っていた。『世界で一番幸せにします』と言おうと思っていた。  でも先に、瑠璃さんが病気のことを告げた。僕のダイヤモンドはポケットから出なかった。僕は静かにため息をついた。  そのとき瑠璃さんの隣の僕が言った。   「あ……なんか、飲むものが欲しいよね。買ってくるから」 そういうと、二年前の僕は元来た道を走っていった。僕は茂みの奥で舌打ちする。 ――ちっ、バカ。  わかってる。緊張のあまり、いったん瑠璃さんから離れようと思ったんだ。僕はますます茂みの奥に入りこんで瑠璃さんを見ていた。  幻でも嘘でもいい。彼女が生きて動いて、笑っているのなら世界は色と音と匂いを取り戻す。僕の血液が、温度を取り戻す。  たいせつなひと。  僕という人間を、形づくってくれた人だ。  でも僕が本当に思っていることを全部伝えきるまえに、彼女はいってしまった。くやしかった。  そう思った瞬間、僕は茂みから立ちあがっていた。 「瑠璃さん!!」  瑠璃さんは振り向いた。そのやわらかい頬。いつも笑っているような目じり。  僕はポケットから指輪の箱を取り出した。  「結婚しま……まほまほ……」  僕の噛み噛みのプロポーズに瑠璃さんは目を丸くしていた。それから、はじけるように笑い始めた。 「まほまほ、って。基くん」 「まって、やりなおす」  瑠璃さんは笑って僕のくちびるに指をのせた。柔らかく、あたたかい指。  愛しているという言葉のすべてが、体温となって瑠璃さんの指先に乗っていた。  この世でただひとり。僕のために。 「この指輪、預かっておいてね。病気が治ったら絶対にもらうから」  瑠璃さんは笑った。時間が溶けてゆく。  僕が最後に覚えている瑠璃さんの声が、どこかから聞こえた。  ベッドの上で彼女は確かにこういった。 『基くん。もう一度どこかで、会おうね』   風が、吹いている。  僕と瑠璃さんを出会わせ、瑠璃さんを連れて行ってしまった風が吹いている。  少し伸びすぎた僕の前髪が秋の風を受け止めたとき。  僕はこの世界に戻ってきた。  ひとりで。  公園から戻ると、部屋の中はがらんとしていた。 「ただいま」  部屋の明かりをつけて僕は写真の瑠璃さんに言う。  瑠璃さんはいつものように笑っていて。  いつもと違って、左手にダイヤの指輪をつけていた。  僕のポケットは、ついに空っぽになった。  大切な人。  僕の唇には、あなたの体温が残っている。  だからこのさき、どんなろくでもない日々が続くとしても僕は生きていける。もう二度とあなたを見失わない。  いとしいひと。  あなたの体温が  大事な約束。僕の運命だ。 【了】
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