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 買い物をして自宅に戻ると、先に保広が帰っていた。 「どうして帰ってきたの?」  おかえり、という言葉の代わりに、私はソファに座ってテレビを見ていた夫に投げつける。 「お前こそ、よく帰ってこれたな」  テーブルの上には既に三缶目のチューハイが開いていて、私を(にら)みつけた後でそれも飲み干してしまう。 「友理恵さんはどうしたの?」 「あいつは料理教室のお仲間さんたちと一緒にランチだそうだ」 「そう。何か食べる?」  酒のアテにはコンビニで買ったと思われる焼き鳥と焼き烏賊(いか)がパックのまま置いてあったが、どちらも一口食べただけで残っている。 「お前がそんなことできる女だとは、思わなかった」  私は台所まで歩いて行き、買い物袋を置いた。買い込んできた肉や魚を冷蔵庫へと仕舞っていく。 「俺に何か不満があったのか?」 「あなただってずっと友理恵さんと付き合っていたんでしょ」  彼はそれを否定しない。 「あいつに何言われたか知らないけど、友理恵はああいう女だ。いちいちあいつの言うこと真に受けてたら、それこそ世の中不倫だらけになっちまうぞ」 「じゃあ、どうしてあなたはそのクッションに座っているの?」  保広は自分が友理恵が買った円形のそれに座っていることに今更に気づいたみたいで、慌てて尻の下から引き出して脇に放り投げる。 「あいつが勝手にしただけだよ。俺のことはいい。それよりも」 「あなたは私の実家に行ってくれたの?」 「ん? 何言い出すんだよ」 「いなくなった私のことを心配して、私の実家まで行ったりしてくれたのか、って聞いたの」  そんなのは、あれだ。とかはっきりと口にせず、彼は(にご)してしまう。 「すぐに友理恵に電話したんですって? あなたが欲しかったのは結局自分の世話をしてくれる、母親代わりの女性だったってことじゃないの?」 「何言い出すんだ! 俺はそんなんじゃ」  立ち上がって、缶を投げつけた。中身がカーペットに(あふ)れてなければいいな、と思いながら、私は冷蔵庫を閉めて、買い物袋を畳む。 「ねえ」  それからリビングまで戻って、足元に転がったチューハイの缶を拾い上げると、 「どうして私のこと、未だに海月ちゃんて呼ぶの?」 「それは、海月ちゃんだからだろ?」 「それって友理恵が私のことをそう呼んでたから、なんでしょ? あなたってすぐ付き合ってる女性の口癖が移ることに、自分で気づいてた?」  缶を置く。その乾いた金属音が、今の私の心の音みたいで、少しだけ心地良かった。 「お願いだ、海月」  彼は頭を下げる。両手をテーブルに突いて、額をそこに付ける。 「まだ、俺たちやり直せると思うんだ」 「私、何も言ってないよ?」 「あいつのことは忘れる。すぐに縁を切る。だから頼む。俺のこと、見捨てないでくれ」 「友理恵と暮せばいいじゃない」 「あんな奴とずっと一緒だなんて、俺には正直無理だよ。あいつはいつだって、他人への優越感があるものが欲しいだけなんだ。俺をお前から奪ったのだって、お前より自分の方が優れてるって思いたいだけだったんだよ。俺はそれに利用されただけなんだ」  それがどうしたというのだろう。  もう、保広の言葉にいつものような情熱を感じなかった。 「あいつはせいぜいが愛人なんだよ。一生を添い遂げたいだなんて思える女じゃない。遊びなんだ。けど海月。お前は違う。死ぬ時に傍にいて欲しいと思える、そういう素晴らしい女性なんだ。だから俺は、お前を選んだ。海月よりも自分を選んで欲しいと言った友理恵のプロポーズを断って」  ありがとう。  とでも言えば、彼は満足したのだろうか。 「ごめんなさい」  今なら私はきっとそう答えただろう。 「お、おい。海月……海月ちゃん?」  私は台所に向かう。  包丁を取り出して、無言でネギを刻み始めた。  まな板を軽快に叩く音だけが、響いていた。  夫であった生き物が何か(わめ)いていたけれど、結局台所まで入ってくる勇気なんかなくて、自室にさっさと引っ込んでしまう。  どうしてだろう。  心は乾いているのに、涙が後から後から落ちていった。
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