第一章 「昼下がりの月」

1/1
前へ
/80ページ
次へ

第一章 「昼下がりの月」

 七部丈の袖の部分がふわりと(ふく)らんだブラウスだったけれど、集まった人の多さの為か、脇の下あたりがじっとりと肌に張り付いてしまっていた。店に入った時はまだ雨が降っていなかったが、ニュースでは今日にも関東地方の梅雨入りが発表されそうだと言っていたことを思い出す。 「ねえ海月(みつき)、あのスタッフの子、ちょっとかわいくない?」  キャンドル教室に誘ってくれた榊友理恵(さかきゆりえ)は大学時代から変わらないくりっとした瞳を向けて、私に耳打ちをする。  教室はアロマキャンドルを売っている店舗の奥の小部屋で行われていたが、主催者らしい男性が袖をまくり上げて(たくま)しい二の腕を見せて、ホワイトボードに蝋燭(ろうそく)の作り方の基本を書いている。その周囲で準備に忙しなく行き来しているのが、友理恵が言った“あのスタッフの子”だ。  長身でやや色黒、しゅっと(とが)った(あご)に刈り上げた髪はスポーツマンといった雰囲気がある。それが足元までの長さがあるデニム地のエプロンをしていて、少し微笑ましい。  と、一瞬目が合って、軽く会釈された。胸のところに付けたプレートに手書きの文字で『鳥井』とあった。 「それでは生徒のみなさんにも、実際にキャンドルを作ってもらいましょうかね。えー、まずはロウソクの元となるパラフィンワックスを砕いたものと芯ですね、その座金が付いた紐状のものです。それぞれご自分のものがあるか確認して下さい。湯煎(ゆせん)用の手鍋はお二人で一つとなりますので」  長机が三つ置かれそれぞれに材料と器具が並べられていたが、私と友理恵の前にはまだロウソクの元と芯が一組しか用意されていなかった。手鍋もない。 「あの」  鳥井、というネームプレートを付けた青年に声を掛ける。 「私たちの分が、足りないみたいなんですけど」 「あ、すみません。今すぐ準備します」 「おい、鳥井。何やってる。さっさとしろ」 「はい、わかりました」  私たちに頭を下げたにも関わらず、彼は主催の男性に怒鳴られていた。  慌ただしく店舗の方に走っていくと、ロウを砕いたものと芯、それに色を付ける為のクレヨンを取ってきてくれた。 「ありがとう」 「いえ。すみませんでした」 「おい、鳥井。こっちの生徒さん見てやって」 「はい」  私は友理恵と目を合わせて小さく笑うと、改めてホワイトボードに書かれた手順を確認して、自分たちのロウソク作りを始めた。 「えー、それではみなさんの最初のキャンドルが完成しましたね」  溶かした原料にクレヨンで薄く思い思いの色を付けたロウソクは、配られていた幾つかの型の通りに星や円柱形をしていたけれど、私のものは熱の加え方が悪かったのか、ハート型が(いびつ)(へこ)んだものに仕上がってしまった。 「まるで失恋したみたいね。あ、でもこんな年齢じゃ失恋てより、離婚?」 「ハートが曲がったくらいじゃ、離婚できないわよ」 「割れちゃったところで子供たちの為に成人までは、って我慢したりね」  一方、大学時代から何かと器用な友理恵の方はというと、四角い綺麗な角の紫色のロウソクを作り上げていた。 「このまま持って帰りたいという方はやらなくていいですが、折角ですので点灯式を行いたいと思います。いいですか。キャンドルというのは炎を灯して初めて完成品なんです。LEDや電飾のそれとは違う、炎の温もりをキャンドルからは感じられるんですよ」  主催の男はホワイトボードに『心』と大きな字を書いて、二度、ボードを叩く。 「ではマッチを配ってますので、それで点火して下さい。いいですか」 「どうぞ」  私たちは鳥井に差し出された店のロゴが入ったマッチをそれぞれ受け取った。名刺サイズの厚紙の裏に五本だけ貼り付けられているものだ。そこから一本を引き剥がし、擦る。  私の方は一度目はうまくいかなくて、二度目は先が折れてしまった。 「私がやったげるわ」  仕方ないので友理恵に渡して、彼女に点けてもらう。  しゅるりと燃え上がった炎を私の不器用なロウソクの芯に近づけると、火が灯った。  スイッチ音がして照明が消えると、テーブルの上に並ぶ各自のキャンドルが温かな光を灯して、集まった十名ほどの生徒の表情を照らし出してくれる。  その光景に、私は隣の友理恵と互いを見て、青春時代の一ページを引っ張り出した。 「大学の時のキャンプを思い出すね」 「保広(やすひろ)さんと初めてキスしたこと?」 「友理恵はすぐそういう方向にしたがる」  けど、確かに不意打ちのようなファーストキスの優しい感覚はそれから半年くらいずっと、私の日常を彩ってくれた。  その幻想的な炎を前に、提供されたシャンペンを口にしながら(しばら)く歓談の時間が設けられた。私は友理恵の学生時代の思い出話に付き合いながらも、黙々と後片付けをする鳥井という青年のことを視界の端に捉えていた。 「それじゃ、また誘うわね」 「うん。ありがとう」  お店を出て、大通りの交差点で友理恵と別れる。  彼女はこの後別の用事があると言っていた。何かと忙しそうなのに全然疲れて見えないのは「アラフィフだからこそ女を(みが)かなくちゃなのよ」という彼女の持論から来るものだろうか。  歩行者用の信号が青へと変わり、歩き出す。  今日の晩御飯の内容を頭の片隅で考えながら、私は表情もよく見えない沢山の人たちの流れに紛れていく。見上げれば薄雲が掛かる空にぽっかりと半分になった白い月が浮かんでいた。
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!

42人が本棚に入れています
本棚に追加