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 塩焼きにした(あじ)が家族の帰りを待っていたけれど、魚好きの夫に対して娘の灯里は骨を取るのが面倒だからとあまり食べてくれない。  それにしてもまさかキャンドル教室のあの彼が、自分が当時娘の名前を使って仮想恋愛を楽しんでいた相手だったなんて、思いもしなかった。祐二、という名前もそのままで、リアルの彼もあの当時の真面目で正直で優しい印象そのものだった。  偶然の再会に内心でいくらか喜んだ。  けれど、自分の行為が彼を傷つけてもいた。  私は、酷い女だ。 「ただいま」  溜息混じりの声で娘が帰ってくる。二ヶ月ほどですっかり馴染(なじ)んだスーツ姿も、今は毎日のようにくたびれ顔を載せていた。 「お疲れさま。今日はご飯、食べるでしょ?」  灯里はショートヘアを掻き(むし)り、食卓の上に乗った鯵を(にら)みつけると、 「いい。それに、今夜は友達んちに泊まるから」  そのまま奥のキッチンに行って冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して、コップに注がずに口をつけて飲んだ。昔は注意していたけれど、最近ではもう私の声はあまり届かない。それもこれも自分が悪いのだから、自業自得というやつなのだろう。 「ねえ、灯里」 「何?」 「ほら、来週誕生日でしょ。何か食べたいものとか、ある? 特になかったらまたお寿司とか、それともこの際だからみんなでどこか食べに行きましょうか?」 「いい。既にその日、予定入れてあるし」 「そうなの? お友達?」 「いいでしょ」  肩で大きく息をすると、灯里は私の方に向き直った。 「あのね、一つ言っておくけど、わたし、お金ができたら外出て一人暮らしするから。これ、お父さんには既に許可(もら)ってるし」 「それは聞いたけど、でもそんなに慌てなくても。ほら、近頃何かと危ないし。ね?」 「誰かの名前勝手に使うような、そんな危険人物が身内にいますけどね」  それを言われてしまうと、もう私は何も言葉を取り出せなくなる。  口を(つぐ)んでしまった私に背を向けて、灯里は自分の部屋に入っていってしまった。ドアが強めに閉められた音が、耳に痛い。 「で、灯里は今日も外泊ですか」  十二時前に顔を赤くして帰ってきた夫の保広は、レンジで温め直した鯵にお茶漬けを添えて食べながら、一人娘の最近の行動について語った私に苦笑を見せた。 「中学くらいの時に全然反抗期がなかったんだから、それが遅れてやってきたんだと思えばいいんじゃないか?」 「反抗期でもいいですけど、自分のことをちゃんと考えての上なのか、心配なんですよ。ただ親への反発だけで一人暮らししたいなんて考えてるんだとしたら」 「海月はそういう子供時代なさそうだから、たぶん分かんないんじゃないかな?」 「何がです?」 「認めてもらいたくて背伸びしてみたいとか、そういうの」  別に自分が箱入りだったとは思わないし、今も埼玉で暮らす両親は地道に農業をして暮らしている。確かにあれこれ厳しく言われた記憶はないけれど、それでも私だけが違うと言われているみたいで、保広の湯呑みに熱々のお茶を注ぎながら、不満そうに口を尖らせた。 「まあ、灯里のことは置いといて、今日な帰りに、久しぶりにジム寄ってきたんだよ」 「あら? 毎週行ってるんじゃなかったんですか?」 「いやほら、最近ちょっと仕事が立て込んでただろ。それで行けてなかったんだが、まあとにかく、ジムで篠崎って、ほら大学ん時の後輩で目がくりっとして背のちっこい男の子いただろ? あいつがもうこんな風に腹筋ぱっくり割れててさ」  大学でテニス部とアウトドア部を兼任していた保広には、先輩や後輩と名のつく友人知人が沢山いた。そもそも友理恵に紹介された時にも彼の周囲には女性が沢山群がっていたのだ。その彼が言う後輩を、私はいちいち覚えていない。 「今もう子供の五人目が嫁さんのお腹にいるんだって。あいつ確か年上女房だったから五十過ぎなんじゃないかな。野球チームができるくらい欲しいですけどって言ってたけど、ありゃ嫁さん大変だわな」  夫は子供好きなのかどうか、未だによく分からなかった。娘のことは可愛がってくれているし、赤ん坊の頃は何かと助けてもらったけれど、最近はあまりそういうことを求めてこない。結婚して子供が生まれたらそういうもんよ、とは友理恵に言われたけれど、私はスーツの襟首からいつも漂う薄い柑橘系の香りを、気にしないようにしていた。 「その篠崎の話じゃないんだ。そいつの元上司でさ、今脱サラして北海道でペンションやってる奴がいるんだけど……どこやったかな」  そう言って立ち上がり、保広は仕事の手提げ鞄の中からくしゃりと(つぶ)れたパンフレットを取り出した。 「これ。塩川さんっていう、俺も営業先で世話になったんだけど」  そこには丸太で組まれた家と、渓流での魚釣りの写真が載っていた。中を開くと北海道らしく魚介類の料理が沢山並んでいて、一日一組限定という文字が目立っていた。 「ちょっと時間ができたら、久々に家族で北海道もいいかなって思ってさ」 「ええ、それはいいと思うけど。でもまだ暫く灯里も休みなんて取りづらいんじゃないの? そもそもあなたの方こそ有給申請できないって(なげ)いてたじゃない」 「それは予定が決まったら土下座でもなんでもして無理くり取ってきますよ。なんかさ、真っ白な虹が見られるんだって。ほら、ここ」  パンフレットの最後に昼間の空に浮かんだ薄い円のような光が、撮影されている。『奇跡の白い虹』と書かれ、それを見たら幸福が訪れると、どこかで見たことのあるような文言が添えられていた。 「こういうのって条件が整わないと見られないんでしょ?」 「だからこその奇跡なんだろ」  不器用なウインクをした保広は眠そうに大きな欠伸(あくび)をしたけれど、全然家族のことを考えてくれていない訳じゃないことが分かって、私は少しほっとした。
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