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シチューの材料を煮込みながら、マフラーの続きを編んでいた。流石にセーターなどの大物はもっと慣れてからじゃないと上手くできそうになかったので、マフラーを選んだのだけれど、既に八割ほど編み終えてしまっている。倍ほどの長さにして二人で巻きつける、なんていつの時代の恋人だろうとちょっとした妄想を楽しんでみるが、迷惑かなと思って普通の長さで留めておくことにした。
外はすぐに暗くなってしまい、街に出ればクリスマスソングが流れていた。電飾は赤と緑のクリスマスカラーで、ケーキの予約ポスターもよく目に付いた。
手にしていた編み棒を置くと、立ち上がって鍋にルーを割り入れる。煮込み用に買った鍋は一人暮らしの男性の部屋には不釣り合いな大きさだったが、それでも祐二君は何も文句を言わずにただ「ありがとう」と「嬉しいです」を口にしてくれた。
味を見て、蓋を閉じる。
彼が帰ってきてから改めて火を入れることにして電源を切った。
それから私は雨守から渡された名刺を、バッグから取り出して見た。
「刑事さん……」
警視庁の捜査二課という部署名と、吉井剛志という名前、それに電話番号が手書きで書かれている。金森烈から連絡があったら一報入れて欲しいと言われたそうだ。
その件については、祐二君にはまだ話せていなかった。
時刻を確認するともう八時近い。
急に現場の仕事が入ることもあったけれど、そういう時はちゃんとLINEで連絡を入れてくれるから、おそらく帰ってくるのだろうと思う。ただ妙な胸騒ぎがあった。
そんな私の耳に、鍵を開ける音が響く。
「おかえりなさい」
立ち上がって玄関口に向かうと、扉を開けた彼は泥だらけだった。唇の端が切れて血が滲んでいる。
「どうしたの!?」
「ちょっと、ね……」
右足を引きずって入ってくると、倒れるようにドアを閉めてそのまま転がる。
「祐二君?」
「これくらい、慣れてますから」
手の甲は擦り切れてコートの肩が破けていた。
「ちょっと脱いで」
「大丈夫ですから」
「そんなことどうでもいいの」
私は心配ないと苦笑する彼から無理矢理上着を脱がすと、血が滲んだシャツが現れた。それも脱がしてしまう。
「大丈夫じゃないでしょ。こんなになって」
腕や腹部に青痣があった。殴られたのか蹴られたのか。一人なのか大勢なのか。それは分からないけれど、暴行を受けたことだけは明らかだった。
「救急箱は?」
「そんなの、ないですよ」
私は自分のバッグの中を見るが、絆創膏や布巾くらいしか使えそうなものはなかった。
「ちょっと買ってくるから、傷口洗ってて」
財布を手にすると、慌てて外に出ていこうとする。
その手を彼に、掴まれた。
「海月さん」
「何よ」
「俺は、大丈夫ですから」
彼は切れた唇から滲んだ血を拭って、私を見た。
「そんなこと言われても、私は大丈夫にならない」
その手を振り払い、私はドアを開けて買い物に向かった。
帰ってきて治療が終わると、シチューを温めながら彼から事情を聞いた。
「それで、金森さんが借りてたお金を払えって?」
「はい。俺、保証人になってたんで。だから仕方ないんですよ」
「殴られても?」
祐二君は口を噤む。
「金が払えないなら金森さんを出せって。どこにいるか知ってるんだろうって。どうも金森さん、奴らの金を盗んで逃げたみたいなんです」
「どうしてそんなことしたの? 金が払えないとしても、そんな人たちのお金に手を出すなんて」
「分かりません。ひょっとしたら海外に逃げたとか、奴らは言ってましたけど」
アンブレラに来た刑事たちが言っていたのは、この件だったのだろうか。私は祐二君にそのことを話すと、彼にも名刺を見せた。
「二課っていうと横領とか詐欺事件ですね。じゃあ本当に金森さん、事件に絡んでたのかも」
どうしてそんなことになったのだろう。私には伺い知れない沢山の事情があるのだろう。祐二君もそれについては全く心当たりがないと言った。
「俺、あの人たちのことちょっと知ってるんです。以前勤めていた店が放火事件の被害にあった時に、金森さんに助けてもらったんですけど、その店の経営者がそこの関係者だったんです」
放火事件の容疑者だったことは金森からも聞かされていた。
「海月さん。もう、俺には関わらないで下さい。あの人たち、本当に地獄の果てまで追いかけてきますから」
「なんでそんなこと言うの」
「海月さんが大切だからです」
シチューの表面がぐつぐつと音を立てていた。
「大切なのに、遠ざけるの?」
「大切だから、近くに置いておきたくないんです」
火を止めると、私は祐二君に向き直った。
「また、あなたから離れなきゃいけなくなるの?」
私は前に進み出る。
座っている彼の前に覆いかぶさり、そのまま首に抱きついた。
「心配しないで。私が、何とかするから」
もう私には祐二君しかいない。
その言葉を飲み込んで、私は彼にキスをした。
次の日、彼を送り出すと私は自宅へと戻った。
マンションにはまだ友理恵がいるだろうか。けど、そっちの方が都合が良かった。彼女くらいしか、今の私には頼れる人間がいない。
インターフォンを押して何の反応もなかったので、私は鍵を開けて中に入る。
友理恵のヒールは見当たらなかった。
リビングに上がり込むと、部屋から出てきた灯里とばったり顔を合わせた。
「あ……」
思ってもみなかったことに絶句した私を、娘は興味のない目を向けながら手にしたオレンジジュースの紙パックを、コップに入れることなくそのまま口をつけて飲んだ。
「友理恵さんは?」
「今日はいない。それより、帰ってきた第一声がそれでいいの?」
心臓が握り締められているみたいだった。
「帰ってきたんじゃないから」
「じゃあ何なのよ」
テーブルに音を立てて紙パックを置くと、スウェット姿で灯里は私に向き直る。
「もうここには帰ってくるつもりがないってこと? その不倫相手と一緒にいる方が何倍も幸せってこと? 今までは母親面してわたしや父さんにあれこれ言ってた癖に、本当に好きな相手ができるとすぐそれなの? それでいいの、あんた?」
「いいなんて思ってない。けど、今はそれどころじゃないの」
「じゃあ何よ。なんであんたがここにいんのよ!」
「大切な人が大変だからよ」
どうしてだろう。
私の口から出た言葉に、娘は涙を滲ませていた。
「そんなに友理恵さんが必要なら、電話すればいいじゃない。今日は料理教室の準備で出かけてるから掴まるかどうか知らないけど」
「弁護士に知り合いのいる人が、必要なの」
灯里は目を大きくして私を見た。
「ねえ。お母さん。一体……何したの?」
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