第九章 「消えた暖炉」

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第九章 「消えた暖炉」

 外灯が照らす路地を、私は一人で歩いていた。自転車が脇を抜けていくのにベルを鳴らすから、それを避けようとしてよろけてしまう。情けなく転んでしまえば、誰かが助けてくれたのだろうか。  しゃがみ込んだだけで、そのまま肩で息をする。  誰かが傍を通る度に、男たちの臭いがするのではないかと(おび)えた。  けれど誰も私の存在なんか気にしていない。足早に通り過ぎて、どこかに行ってしまう。  私は胸元に目がいって、ボタンが半分ほどしか留まっていなかったことに今更に気づいた。慌てて留めると、立ち上がって、足を動かす。  アパートまで辿り着けば、彼がいる。  ただその温もりだけを求めて、力の入らなくなった足を前に進めた。(ひざ)が揺れる。股には感覚が無くなっていた。シャワーでしっかりと流したはずなのに、次から次から背中に汗が滲んでくる。息が辛い。  顔を上げる。  次の電柱を越えた先だ。  明かりが見えた。  アパートの103号室が、明るくなっていた。  私は力を取り戻した体を必死に、走らせる。  心の中で「祐二君」と呼ぶ。今にも叫びたい気持ちで、足を動かす。  ドアには鍵が掛かっていなかった。  ノブを握って、思い切り開ける。 「祐二君!」  けれど、そこで待っていたのは彼とは似ても似つかない、大柄の茶髪の男性。室谷だ。 「お母さん!?」  その陰から顔を出したのは灯里(ともり)だった。  どうして、という言葉が声にならない。  私は靴を脱いで上がろうとして、(つまず)いてしまった。思い切り床板の上に倒れ込む。 「……なんで」  私を見下ろす二人に、ようやくそれだけ返す。 「祐二の奴に、もうお母さんに関わるなって言ってやるつもりで……」  室谷は私を見て状況を察したようで、 「あの、大丈夫ですか」  とだけ声を掛ける。 「……出ていって」 「え?」 「関係ないから……あなたには何も関係ないから、お願いだから出ていってよ!」  金切り声になった。 「何でよ? わたしはお母さんの為に」 「私のこと嫌いな癖に、あなたは何がしたいのよ! それとも憐れみなの? こんなどうしようもない私のこと、どうなったっていいじゃない!」  (のど)が痛んだ。  でもそれよりも、娘の平手の方がずっと痛かった。 「お母さん、何も分かってない!」  なんで灯里が泣くのだろう。  本当に、自分の娘のことなのに、何も分からない。 「行くよ、やっちゃん」 「おう……けど」 「いいの」 「わかった」  灯里は私を(また)いで行ってしまう。  室谷は終始申し訳なさそうな表情で、玄関のところで深々と頭を下げてから、ドアを閉めて行った。  私は編み掛けのマフラーのところまで這っていって、それを目元に当てながら、泣いた。  どうして、という言葉だけが、頭の中を巡っていた。
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