3

1/1
前へ
/80ページ
次へ

3

 彼が帰ってきたのは八時を過ぎてからだった。 「ごめん。遅くなって」 「ううん。お帰り」  私はすき焼きの鍋を温め直しながら、上着を脱ぐ彼からそれを受け取ってハンガーに掛けた。 「あの」 「ん?」 「これ」  それは以前に彼が言っていた、香り付きの素材をアクセサリィにしたもので、小さなイヤリングだった。黒い円錐と、水晶だろうか、透明の円錐がペアになっている。 「俺、こんなものしかあげられないけど」 「ううん。すごく嬉しい。ありがとう」  私はそれをバッグに閉まって、グツグツと音を立て始めた鍋に慌てて戻る。 「手、洗ってきて。すき焼きにしたから」 「知ってる。ずっと良い匂いがしてた」  満足そうな顔で寝転がった彼を横目に、私はキッチンで片付けものをしていた。  蛇口から流れる水が皿や茶碗の泡を流していく。肉の脂が浮き上がり、白い泡と共に排水口へと吸い込まれていく。  水を軽く切ってから、乾燥用のプラスチック製の(かご)に入れる。  箸はまとめて擦り合わせるように洗う。  毎日一ヶ月間、彼の為に二人分の洗い物をした。  そんなことは自分がする、という彼を追いやって、やらせてもらった。彼の為に何か少しでも良い。してあげたかった。  単なる家事をそんな風に考えるのは、新婚の時期以来だ。 「……ありがとう」  耳元で声がして、驚いて振り向く。  私の後ろに祐二君が立っていて、背中から腕を回してくる。 「祐二君?」 「今日まで、海月(みつき)さんがいてくれて良かった」 「うん」  ――もっと、いようか?  そんな問いかけを、押し殺す。  ――もっといて欲しい。  彼の目が、そんな風に言っている気がした。  そっと目を閉じると、彼の唇が押し付けられた。そこに舌が伸ばされて、私はそれを受け入れる。  ただのキスなのに、もどかしくて、胸が熱くなる。 「……祐二君」 「海月さん」  ――したい。  という心の声は、ずっと言わないようにしてきた。  戻れなくなる。  そんな恐怖心が、いつも私にはあった。  でもそれも、今は少し壊れてしまっている。  だから私は「しよ」という、短い言葉を口にした。 「でも俺」 「いいの。最後、だから」  自分で決めた「最後」という言葉。  日常に戻る為の儀式として、祐二君を求めたかった。  彼は無言で(うなず)くと、腕を回したまま移動する。  布団を敷いて、そこに私を寝かせる。  もどかしそうに上着を脱ぐ。シャツも脱いで、私の首筋に吸い付く。 「待って」  私も上着のボタンを外す。  もっと脱ぎやすい服にしておけば良かった。  そんなことを考えながら頭から引き抜くと、キスをする。  互いに、ずっと我慢していたのかも知れない。  ただ唇を重ねるだけで、涙が滲んだ。 「好きだ」 「好き」 「海月さん」 「祐二君」  余計な言葉は要らない。  ただ、刹那の時間を一緒に……。  彼がパンツを下ろすと、立派なものが姿を見せる。 「恥ずかしいよ」 「そんなことない。すごく、(たくま)しい」  いつの間にこんな筋肉質になったのだろう。  その腹筋に触れると、彼が少し顔を(しか)める。  茂ったその先に突き出たものを、私の手が握る。熱い。  これで、一つになる。  その思い出だけを大事にして、残りの人生を生きていく。  私の性器は別の生き物のように濡れていた。 「海月さん……俺」 「うん」  何も言えない。  やっと、彼と(つな)がれるという、その覚悟で目を閉じる。  その時だった。  祐二君の電話が鳴り響く。  仕事かな、と大きな落胆があった。 「……はい。えっと、その……本当ですか? はい。分かりました。今から俺も行きます」  電話を切ると、祐二君の顔が青ざめていた。 「どうした、の?」 「雨守(あまもり)さんから、ドロシーズが……燃えてるって」
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!

42人が本棚に入れています
本棚に追加