42人が本棚に入れています
本棚に追加
3
彼が帰ってきたのは八時を過ぎてからだった。
「ごめん。遅くなって」
「ううん。お帰り」
私はすき焼きの鍋を温め直しながら、上着を脱ぐ彼からそれを受け取ってハンガーに掛けた。
「あの」
「ん?」
「これ」
それは以前に彼が言っていた、香り付きの素材をアクセサリィにしたもので、小さなイヤリングだった。黒い円錐と、水晶だろうか、透明の円錐がペアになっている。
「俺、こんなものしかあげられないけど」
「ううん。すごく嬉しい。ありがとう」
私はそれをバッグに閉まって、グツグツと音を立て始めた鍋に慌てて戻る。
「手、洗ってきて。すき焼きにしたから」
「知ってる。ずっと良い匂いがしてた」
満足そうな顔で寝転がった彼を横目に、私はキッチンで片付けものをしていた。
蛇口から流れる水が皿や茶碗の泡を流していく。肉の脂が浮き上がり、白い泡と共に排水口へと吸い込まれていく。
水を軽く切ってから、乾燥用のプラスチック製の籠に入れる。
箸はまとめて擦り合わせるように洗う。
毎日一ヶ月間、彼の為に二人分の洗い物をした。
そんなことは自分がする、という彼を追いやって、やらせてもらった。彼の為に何か少しでも良い。してあげたかった。
単なる家事をそんな風に考えるのは、新婚の時期以来だ。
「……ありがとう」
耳元で声がして、驚いて振り向く。
私の後ろに祐二君が立っていて、背中から腕を回してくる。
「祐二君?」
「今日まで、海月さんがいてくれて良かった」
「うん」
――もっと、いようか?
そんな問いかけを、押し殺す。
――もっといて欲しい。
彼の目が、そんな風に言っている気がした。
そっと目を閉じると、彼の唇が押し付けられた。そこに舌が伸ばされて、私はそれを受け入れる。
ただのキスなのに、もどかしくて、胸が熱くなる。
「……祐二君」
「海月さん」
――したい。
という心の声は、ずっと言わないようにしてきた。
戻れなくなる。
そんな恐怖心が、いつも私にはあった。
でもそれも、今は少し壊れてしまっている。
だから私は「しよ」という、短い言葉を口にした。
「でも俺」
「いいの。最後、だから」
自分で決めた「最後」という言葉。
日常に戻る為の儀式として、祐二君を求めたかった。
彼は無言で頷くと、腕を回したまま移動する。
布団を敷いて、そこに私を寝かせる。
もどかしそうに上着を脱ぐ。シャツも脱いで、私の首筋に吸い付く。
「待って」
私も上着のボタンを外す。
もっと脱ぎやすい服にしておけば良かった。
そんなことを考えながら頭から引き抜くと、キスをする。
互いに、ずっと我慢していたのかも知れない。
ただ唇を重ねるだけで、涙が滲んだ。
「好きだ」
「好き」
「海月さん」
「祐二君」
余計な言葉は要らない。
ただ、刹那の時間を一緒に……。
彼がパンツを下ろすと、立派なものが姿を見せる。
「恥ずかしいよ」
「そんなことない。すごく、逞しい」
いつの間にこんな筋肉質になったのだろう。
その腹筋に触れると、彼が少し顔を顰める。
茂ったその先に突き出たものを、私の手が握る。熱い。
これで、一つになる。
その思い出だけを大事にして、残りの人生を生きていく。
私の性器は別の生き物のように濡れていた。
「海月さん……俺」
「うん」
何も言えない。
やっと、彼と繋がれるという、その覚悟で目を閉じる。
その時だった。
祐二君の電話が鳴り響く。
仕事かな、と大きな落胆があった。
「……はい。えっと、その……本当ですか? はい。分かりました。今から俺も行きます」
電話を切ると、祐二君の顔が青ざめていた。
「どうした、の?」
「雨守さんから、ドロシーズが……燃えてるって」
最初のコメントを投稿しよう!