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マンションに着いたのは午後二時を回っていた。
鍵はしっかり閉められていて、玄関までやってきた時に誰もいないのが分かって内心ではほっとしたけれど、いざ自分の部屋に入ってベッドにそのまま倒れ込むと、言いようのない体の重さに、そのまま寝込んでしまった。
久しぶりの自分の部屋のはずなのに、何だか私の匂いがしないような気がして、その所為だろうか。小学生の頃にかくれんぼで鬼になった時に声を掛けても誰も答えてくれず、探し回っても誰も見つけられないまま、下校の音楽が流れ出してしまったあの時の思い出を、夢で見た。
家路、というタイトルだったと思う。
それがドボルザークという人の作った交響曲の一部だったことは、大人になってから知った。
目が覚めるとカーテンの隙間から茜色の日差しが床に線を作っていて、私は慌てて目覚まし時計を見る。二時間以上眠ってしまっていたらしい。体を起こそうとしたら、背中が痛くなってまた体をベッドに預けてしまう。
それでも何とかゆっくり起き上がると、部屋の外に出てみる。
誰も帰っていないリビングが夕焼けに染まっていた。
でもソファに掛けられた花柄のシーツも、そこに置かれた円形のクッションも、花瓶に活けられた白とピンクのクリスマスローズも、私は知らない。
ここは、だから、私の知らない家だ。
そこに今、私は一人でいる。
壁に掛けられたカレンダーは三日後にクリスマスイブが訪れることを教えてくれていたけれど、私のスケジュール帳にはその日、何も書かれていない。祐二君は仕事だと言っていた。保広や灯里には何も聞いていないけれど、彼らもきっと、自分が好きな誰かと一緒に過ごすだろう。
台所に行き、冷蔵庫を開けてみる。
夫の為にいつも缶ビールを切らさないようにしていたけれど、それを全て飲んでしまったのだろう。ドリンクの棚が空っぽだった。他に出前で注文したらしいピザの残りが見つかったけれど、友理恵ならこんなところに入れずにさっさと捨ててしまう。
保広か、灯里か。
それとももっと別の誰かだろうか。
食器棚を開ける。
茶碗も湯呑みも、皿も、全部仕舞う場所が違っている。知らない器もあった。
そういう一つ一つの確認作業が、私の居場所を奪っていく。
それでも私は全ての居場所を確認した。
きっとどこかに、自分の居場所がまだ残っていると思ったから。
翌日、喫茶店アンブレラに足を運んだ。
梁たちと出会ってから数日休ませてもらっていて、流石にこれ以上は失礼だと思ったからだ。
けれど店の前には『臨時休業のお知らせ』が貼られていた。
窓から店内を覗いてみたけれど、カウンターにも雨守の姿は見えない。諸事情により、としか書かれていないので、私はどうしたものかとその場で迷っていたが、思い切って祐二君にLINEで訊いてみる。
ちょうど手の空いている時だったのか、一分ほどで返事があった。
> 昨日入院したそうです
思ってもみなかった言葉を見つけて、私はスマートフォンを落としそうになった。
すぐに祐二君から入院先を教えてもらうと、病院に向かった。
「ああ、浅野さん」
六人部屋の窓際のベッドで横になっていた雨守は、入院着の所為か、店で見る時よりも窶れて見えた。
「連絡してくれたら良かったのに」
「ちょうど鳥井君が店に寄ってくれた時だったんで……しかし彼には迷惑を掛けました」
「もう大丈夫なんですか?」
症状も何も知らないまま来たのだけれど、元気そうに見えたのでそう訊いてみる。
「まだこれから検査して、それから手術するかどうかは相談だそうです」
手術、と聞いて不安になる。
「膀胱ガンだと言われました。小さいものなら放射線治療と薬物療法でしょうが、ある程度以上になると摘出手術になりますね。女の方を前にこういう話はあまりしたくないものですけど、まあ、膀胱を摘出すると色々と大変になる、という話です」
排尿用の器具を体内に入れたりする、ということだろうと推測したけれど、わざわざそれを確認することはしなかった。
「手伝えることがあったら何でも言って下さい」
そう申し出たのだけれど、雨守はいつものように笑顔を浮かべながら丁重にそれを断った。
「一応一人で生きていくことを考えて、もし何かあった時の備えは色々済ませてあるんで、大丈夫ですよ」
自分の両親よりも若いのに、そんなことを言われてしまうと私は不安になる。何かあった時に駆け込み寺のような自分の居場所の一つになってくれると思っていたアンブレラも、彼に何かあれば処分する手続きになっている、ということだろうか。
「あの……」
「手術することになったとしても来月中には復帰できるそうですから、心配しないで下さい」
「そうなんですね」
「はい。まあ、それまではまたパートをお休みしてもらうことになりますけど」
「そんなこと、全然構いませんよ。どうするのか決まられたら、また教えて下さい。鳥井君経由でもいいですし」
女性相手だと話しづらいこともあるかも知れない、と思ってそう口にしたが、心のどこかでは雨守の入院にかこつけて、彼と連絡を取り合うことができるようになる、という気持ちも少しはあったのかも知れない。
「それじゃあ、また来ます」
こうして、私の居場所がまた一つ、失われた。
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