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7
クリスマスイブの朝、夫は無言のまま茶碗と箸の音だけがする食卓に耐え切れずに、さっさと出社してしまった。
――まだ戻れる。
と思っていたはずの場所には、私の居場所なんか既に無くて、ただ乾いた心だけがあった。
掃除機を掛ける気にもならなくて、洗濯物だけ終えるとそのまま自室のベッドの上で横になった。
パソコンで音楽系のサイトを開いて、ランダム再生に設定する。流れ出したのはかつて歌姫と呼ばれて一躍脚光を浴びた女性の、バラード曲だった。
そのゆったりとしたリズムが、私を眠りに誘う。
怯えたような声が心地よく、その謎めいた言葉の一つ一つは、今の私の気持ちをよく表現してくれているような気がした。
ワルツを、と切れの良い発声でサビが終わる。
もう一度、踊ることができるだろうか。
怪我というきっかけが、バレエという舞台から私を簡単に下ろしてしまった。
思えばあの頃から、私は諦めの良い子供だったのかも知れない。
沢山の女子の中で、あちこちに話が飛ぶのについていけずに、ただ笑って済ましていた私は、彼女たちにとっては便利な人形だったのかも知れない。話を聞いて、頷いてくれて、笑ってくれる。ただそれだけの、人形。
だとしたら、今の私は糸の切れてしまった、動くことも笑うことも諦めたただのゴミなのかも知れない。
捨てられて、沢山の壊れた人形と一緒に、どこかで燃やされてしまうのだ。
そんな思考がぐるぐるとなって、私を襲った。
眠っていたのかどうかもよく分からないまま、私は何度も寝返りを打ち、次々に流れる曲を聞き流した。
夢現だったからか、最初はインタフォンの音だとは思わなかった。
慌てて起きると、私はリビングに向かう。
スピーカーから聞こえてきたのは、あの吉井という刑事のものだった。
私は玄関の電子ロックを解除すると、上がってくる彼に備えてお茶の準備をしに台所に向かった。
「いやあ、突然すみませんね」
「コーヒーの方が良かったでしょうか?」
「いえ、本当にお構いなく。すぐにお暇します」
ソファに座った吉井は歯を見せて笑ったが、ヤニで黄色くなったそれには嫌悪感しか湧いてこなかった。
「吸われます?」
「本当はそうしたいところですが、今はうるさくなったんで喫煙所以外では遠慮してるんですよ。それより、今日はお一人ですか?」
私は対面に座りながら「ええ」と頷く。
「そうですよね。ご主人も娘さんもお仕事でしょう。そういえばあなたもパートをされていたはずでは?」
「今店長が入院していて、それでお店が休みなんです」
「ああ、それは失礼。今日はどこかに出掛けられる予定はありますか?」
何が聞きたいのだろう、と訝しみながら私は「買い物くらいは出るけれど」と答える。
「いや、今日こちらに伺ったのは、実は金森烈が都内にいたという目撃情報がありまして」
「え?」
「ああ、ご存知ない?」
「はい。全然知りませんでした」
祐二君は知っているのだろうか。
「こちらに顔を出しているかと思ったんですが、その顔ではどうやらまだ来てないようですね」
「どうしてここに来ると?」
そもそも私はあの旅行を最後に彼とは出会っていない。連絡もなかったし、もう完全に縁が切れたものだと思っている。それなのに警察はどうしてここまで執拗に私につきまとうのだろう。
「本当にもう何の関係もないんです。こんなところよりももっと他に行くべきところが」
「どこです?」
「え……」
「だから、あなたは知っているんでしょう? 金森烈が行きそうな場所、あるいは、既にそこで会う約束をしていらっしゃる?」
吉井の目が大きく開かれ、私の些細な戸惑いや言外の思考を見抜こうとする。
「何も知りません」
「栄光ファイナンス」
それは確か室谷と梁が務めている会社の名だ。
「ご存知なんだ?」
「確か娘の付き合っている相手の」
「梁大智も、ご存知でしょう?」
その名に、心臓が跳ね上がる。
「知ってたら、どうだっていうんです?」
「その名を知っていると知っていないでは、全然違うんですよ。梁はずっと我々が追いかけているある詐欺グループの一人なんです。最初、金森はその関係者の一人と疑われていた。けれどどうやら今回金森と彼らの間で仲間割れがあったらしく、金森は大事な金と顧客データを持ち逃げして、奴らは今、必死になって金森を探している。その金森の関係者の一人が、あなただ。何か大事なことを聞いてませんかね? 何度も聞いてますが」
「何も」
私の顔を、吉井はじっくりと見やる。何秒だろう。それから一つ頷くと、
「わかりました」
と立ち上がった。
お茶を一気に飲み干すと、湯呑みを置いて、
「今日は諦めます。けど、また来ますよ」
「いい加減にしてもらいたいです」
「何度か会ってみて、思ったんですよ。浅野さん。あなたのところに男は戻って来たくなる。そういう女性なんだと」
「何ですかそれ」
意味が分からなかった。
「きっと金森も、あなたのところに戻ってきます。私の直感ですがね」
「勘なんてもので、私は迷惑を受けているんですか」
「迷惑を掛けてでも犯罪者を捕まえる。それが警察ってものです。それにね、私は常々思ってるんですよ。犯罪を犯す前に捕まえることができるなら、相手にどんな迷惑を掛けたって構わない。寧ろ感謝して欲しいくらいだって」
思い切り頬を叩きたい気分だった。
「帰って下さい」
そう言って、私は台所に向かう。
「ええ、帰りますよ。お茶、ごちそうさまでした。亡くなった妻に淹れてもらった味を、思い出しました」
どうしてそんな捨て台詞を言うのだろう。
玄関ドアが閉まった音を聞くと、急に寂しさに襲われた。
私は慌てて祐二君にLINEをする。
――会いたい。
ただ、それだけの言葉を、ネットを通じて彼に届けた。
けれど、一分、二分……もっと待っても、返事なんて来なかった。
テレビを点ければクリスマス一色の街の様子を映している。
楽しげな恋人や家族、それはもう、どんなに私が望んでも届かない幻なのかも知れない。
「会いたい」
と、声に出す。
「祐二君に、会いたい……」
声が寂しく響く。
ああ、私はどうしてこんな女になってしまったのだろう。
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