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 クリスマスイブの朝、夫は無言のまま茶碗と箸の音だけがする食卓に耐え切れずに、さっさと出社してしまった。  ――まだ戻れる。  と思っていたはずの場所には、私の居場所なんか既に無くて、ただ乾いた心だけがあった。  掃除機を掛ける気にもならなくて、洗濯物だけ終えるとそのまま自室のベッドの上で横になった。  パソコンで音楽系のサイトを開いて、ランダム再生に設定する。流れ出したのはかつて歌姫と呼ばれて一躍脚光を浴びた女性の、バラード曲だった。  そのゆったりとしたリズムが、私を眠りに誘う。  怯えたような声が心地よく、その謎めいた言葉の一つ一つは、今の私の気持ちをよく表現してくれているような気がした。  ワルツを、と切れの良い発声でサビが終わる。  もう一度、踊ることができるだろうか。  怪我というきっかけが、バレエという舞台から私を簡単に下ろしてしまった。  思えばあの頃から、私は諦めの良い子供だったのかも知れない。  沢山の女子の中で、あちこちに話が飛ぶのについていけずに、ただ笑って済ましていた私は、彼女たちにとっては便利な人形だったのかも知れない。話を聞いて、頷いてくれて、笑ってくれる。ただそれだけの、人形。  だとしたら、今の私は糸の切れてしまった、動くことも笑うことも諦めたただのゴミなのかも知れない。  捨てられて、沢山の壊れた人形と一緒に、どこかで燃やされてしまうのだ。  そんな思考がぐるぐるとなって、私を襲った。  眠っていたのかどうかもよく分からないまま、私は何度も寝返りを打ち、次々に流れる曲を聞き流した。  夢現だったからか、最初はインタフォンの音だとは思わなかった。  慌てて起きると、私はリビングに向かう。  スピーカーから聞こえてきたのは、あの吉井という刑事のものだった。  私は玄関の電子ロックを解除すると、上がってくる彼に備えてお茶の準備をしに台所に向かった。 「いやあ、突然すみませんね」 「コーヒーの方が良かったでしょうか?」 「いえ、本当にお構いなく。すぐにお(いとま)します」  ソファに座った吉井は歯を見せて笑ったが、ヤニで黄色くなったそれには嫌悪感しか湧いてこなかった。 「吸われます?」 「本当はそうしたいところですが、今はうるさくなったんで喫煙所以外では遠慮してるんですよ。それより、今日はお一人ですか?」  私は対面に座りながら「ええ」と頷く。 「そうですよね。ご主人も娘さんもお仕事でしょう。そういえばあなたもパートをされていたはずでは?」 「今店長が入院していて、それでお店が休みなんです」 「ああ、それは失礼。今日はどこかに出掛けられる予定はありますか?」  何が聞きたいのだろう、と(いぶか)しみながら私は「買い物くらいは出るけれど」と答える。 「いや、今日こちらに伺ったのは、実は金森烈が都内にいたという目撃情報がありまして」 「え?」 「ああ、ご存知ない?」 「はい。全然知りませんでした」  祐二君は知っているのだろうか。 「こちらに顔を出しているかと思ったんですが、その顔ではどうやらまだ来てないようですね」 「どうしてここに来ると?」  そもそも私はあの旅行を最後に彼とは出会っていない。連絡もなかったし、もう完全に縁が切れたものだと思っている。それなのに警察はどうしてここまで執拗(しつよう)に私につきまとうのだろう。 「本当にもう何の関係もないんです。こんなところよりももっと他に行くべきところが」 「どこです?」 「え……」 「だから、あなたは知っているんでしょう? 金森烈が行きそうな場所、あるいは、既にそこで会う約束をしていらっしゃる?」  吉井の目が大きく開かれ、私の些細な戸惑いや言外の思考を見抜こうとする。 「何も知りません」 「栄光ファイナンス」  それは確か室谷と梁が務めている会社の名だ。 「ご存知なんだ?」 「確か娘の付き合っている相手の」 「梁大智(りょうだいち)も、ご存知でしょう?」  その名に、心臓が跳ね上がる。 「知ってたら、どうだっていうんです?」 「その名を知っていると知っていないでは、全然違うんですよ。梁はずっと我々が追いかけているある詐欺グループの一人なんです。最初、金森はその関係者の一人と疑われていた。けれどどうやら今回金森と彼らの間で仲間割れがあったらしく、金森は大事な金と顧客データを持ち逃げして、奴らは今、必死になって金森を探している。その金森の関係者の一人が、あなただ。何か大事なことを聞いてませんかね? 何度も聞いてますが」 「何も」  私の顔を、吉井はじっくりと見やる。何秒だろう。それから一つ頷くと、 「わかりました」  と立ち上がった。  お茶を一気に飲み干すと、湯呑みを置いて、 「今日は諦めます。けど、また来ますよ」 「いい加減にしてもらいたいです」 「何度か会ってみて、思ったんですよ。浅野さん。あなたのところに男は戻って来たくなる。そういう女性なんだと」 「何ですかそれ」  意味が分からなかった。 「きっと金森も、あなたのところに戻ってきます。私の直感ですがね」 「勘なんてもので、私は迷惑を受けているんですか」 「迷惑を掛けてでも犯罪者を捕まえる。それが警察ってものです。それにね、私は常々思ってるんですよ。犯罪を犯す前に捕まえることができるなら、相手にどんな迷惑を掛けたって構わない。(むし)ろ感謝して欲しいくらいだって」  思い切り頬を叩きたい気分だった。 「帰って下さい」  そう言って、私は台所に向かう。 「ええ、帰りますよ。お茶、ごちそうさまでした。亡くなった妻に淹れてもらった味を、思い出しました」  どうしてそんな捨て台詞を言うのだろう。  玄関ドアが閉まった音を聞くと、急に寂しさに襲われた。  私は慌てて祐二君にLINEをする。  ――会いたい。  ただ、それだけの言葉を、ネットを通じて彼に届けた。  けれど、一分、二分……もっと待っても、返事なんて来なかった。  テレビを点ければクリスマス一色の街の様子を映している。  楽しげな恋人や家族、それはもう、どんなに私が望んでも届かない幻なのかも知れない。 「会いたい」  と、声に出す。 「祐二君に、会いたい……」  声が寂しく響く。  ああ、私はどうしてこんな女になってしまったのだろう。
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