42人が本棚に入れています
本棚に追加
第十章 「私たちの篝火(かがりび)」
事件のあった翌日、俺は再び警察の世話になっていた。
「まずは名前をお願いします」
取調室で対面に座ったのは、水川という刑事だ。あまり厳ついといった感じではなく、そこらを歩いている会社員然とした空気がある。
「鳥井祐二です」
「では鳥井さん。何度も答えられていてうんざりされているでしょうが、発見状況から教えて下さい」
ドロシーズの放火事件の時には、海月さんを担当していたのが彼だったと、その淡々とした喋り方で思い出した。
「浅野海月さんに会いにマンションに行ったら、玄関のドアが開いていたので、妙だと思って中に入ったんです。そしたらすぐに金森さんが倒れているのが見えました」
「その時には既に頭から血を流して?」
「はい」
水川はメモを取りながら、一人で頷く。
「それでどうしたんです?」
「状況がおかしいと思ったので、他の部屋を全て見て回りました。誰か、特に海月さんがいれば守ってあげたかった」
「まず金森を発見し、それから部屋を探して歩いた。それで?」
一つ一つを確認しながら話すようで、それが若干苛立つ。
「すぐに通報しました。生きているかどうかは確認しなかったんですが、連絡はしておいた方が良いと思ったので……以前の放火事件の件もあったんで」
少しくらい誤魔化したところですぐに警察沙汰になることは見えていた。それならさっさと電話をしておいた方が良いと教えてくれたのは、金森だ。どうしてあんなところで倒れていたのか。刑事たちは何も教えてくれない。
「通報してからは何を?」
「浅野海月さんを探す為、外に出ました」
マンションを出た後、駅の方まで探して走った。でも見つからなくて、ひょっとしたらという思いでアパートに戻ってみたけれど、結局会えないまま、それでもどこかにいるんじゃないかと、夜の都内を探して歩いた。
「通報しておいて警察が来るまでに部屋を出ていくのは不自然とは考えませんでしたか?」
「海月さんを探す方が大事だと思いました」
水川はそう言った俺の目をじっと見やると、「分かりました」と頷いてから何かメモを取った。
「では、その浅野海月という女性との関係なんですが」
「付き合っています」
あまりにもはっきり答えたことに、水川は戸惑ったようだった。
「それは不倫をしている、ということで良いですか」
「世間的にそう呼ばれるのは覚悟しています。けれど、俺は真剣なんです」
「君は確か二十六……相手とは二十ほども差があるが、何か事情があってのことなのですか?」
質問の意図がよく分からなかった。俺は「違います」と断言してから、もう一度彼女と真剣に交際している旨を告げた。
「若さなんですかね。とにかく不倫関係にあった女性の家を訪れたら、逃走中だった君の店のオーナーが倒れていた訳だ。金森との関係は以前別の者が訊いたけれど、昔からトラブルになるようなことは本当になかったんだね? 一度も」
「何度も言いましたけど、俺、あの人には世話になってたんで。仕事で失敗して怒鳴られたり、時には殴られることもありましたけど……だからって恨んだりとか、ありません」
水川は溜息をつくと、メモ帳を閉じた。
「通話記録にもLINEの記録にも、君の発言と矛盾する部分は見つけられない。ただ君以外の目撃者がいなくてね。おそらく度々話を聞くことになると思うけど……もし今何か言っておきたいことがあれば、聞いておくよ」
「海月さんを、見つけて下さい。お願いします」
両手を机に着いて、頭を下げた。
「えっと」
それに驚いたのか、冷静に対応していたはずの水川が上擦った声を上げる。
「……その、浅野海月については重要参考人として捜査中だ。君が心配するのも分かるが、女性一人。そう遠くまでも行けないだろう。ただ我々としても最悪の事態は避けたい。できれば君の方も彼女と連絡が取れた時にはこちらに連絡して欲しい」
「分かりました」
そう言った俺に、水川は右手を差し出した。
「握手だよ」
彼の意外な面を見た気がして驚いたものの、自分も手を出して少し体温の高くなった水川の手と握り合った。
部屋を出ると、
「よう」
そこで吉井刑事が待っていた。
「最近またよく会うようになったな」
「俺はあまり顔を合わせたくないんですけど」
「そんなこと言うなよ」
行ってしまおうとした俺の前に左腕を伸ばして、そのまま壁に手を突いた。
「こんな小さかった頃に世話した仲じゃないか」
「高校生だからそこまで小さくないです」
一見真面目そうに見えるのに出会った頃からこの調子だった。当時は生活安全課で主に少年犯罪を担当していた。それが何故か今は二課。つまり知能犯の方を追いかけているらしい。
「どうして今は高いスーツ着てるんすか」
「ちょっと偉くなっとこうと思ってな……。それより、お前みたいな奴が人妻に手出すなんてな。まあ、浅野海月は良い女だってのは分かるが」
「そんな風に言わないで下さい。俺、本気なんです」
その言葉を、吉井は鼻先で笑う。
「まともに一人の女を幸せにしたこともない癖に、偉そうに言うんじゃないよ。それともあれか。あれを運命の女性だなんて勘違いした口か?」
右の拳に力が入ったが、息を吐いて我慢する。
「ほんとに知らないのか? 浅野海月がどこにいるのか」
「知ってたら今ここにはいません」
「罪を犯すような女には見えなかったんだがな……ま、誰だって生まれながらの犯罪者じゃないし、そういうもんか。な?」
俺は吉井を一瞥すると、横にずれてそのまま行ってしまおうとする。
「お前が見ているのは、亡くなった母親の幻想だぞ。分かってるのか?」
その背に、声を掛けてくる。
「今さえ愛せればいい。そんな恋愛に未来も希望もない。破滅に足を突っ込んで、またこっちの世界に戻ってくるつもりなのか?」
その声を振り払い、足を進める。
「更生の機会を得たなら大人しく日向で笑ってろよ」
何も分からない大人が、何を説教垂れているんだろう。
俺は答えず、そのまま一階に下りて行った。
昼近いロビィには手続きなんかで肌の色が様々な人間が出入りしていた。
それをやり過ごし、玄関を出る。
風は冷たかったが、それでも太陽は薄曇りの中に見つけられた。
この街のどこかで、彼女は泣いているだろうか。
スマートフォンで時刻を確認すると、仕事先に休暇願のメールを書いた。
最初のコメントを投稿しよう!