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4. 鯛焼きについての "ファースト・バイト" 論争
妙にソワソワした感情ががすぐそこの傍に腰掛け、こちらを見つめながらニマニマと不敵な笑みを浮かべている。私はそれに気づかないふりをして、充さんと斎樹さんとの間のどっちつかずの方向に視線を飛ばした。
「じゃ、マスター、コーヒーを 」
「"マスター、コーヒーを" じゃないよ。また、鍵開けっぱなしで出ただろ 」
「そうだっけ? 」
充さんの鋭い声とは対照的に、斎樹さんは寝ぼけたような声でそう言って眉間に指を当て、わざとらしく思い出そうとしているそぶりを見せる。
充さんは斎樹さんの小芝居を無視することに決めたらしく、着々とコーヒーを淹れる準備を始めてしまった。
「真紘ちゃんもコーヒー飲む? 」
「あ、私はまだコレがあるので 」
そう答えてグラスに手を伸ばしかけた瞬間、「あっ、」と叫ぶ間もなく、気づけば目の前のグラスは掠め取られていた。「え?」と思うよりも先に、斎樹さんは手にしたグラスを口元で傾け、コクコクと抹茶トニックを口に流し込んだ。
「充、コレ、新作か? 」
「お前なぁ、そういうのやめろって言ってるだろ 」
グラスの三分の一ほど残された抹茶トニックを眺めながら、私はどんな反応をするのが正解なのか分からずにいた。それでも、頬が熱くなってきたのだけは分かる。
「真紘ちゃん、ごめんね。新しいの入れる? 」
充さんがドリッパーをセットしながら聞いてきたので、私はお言葉に甘えることにした。
「じゃ、私もコーヒーを。あ、でもお代は取ってください 」
「いいよ、いいよ。そいつにツケとく 」
そう言って、充さんはドリッパーにお湯を注ぎながら、顎をクイクイとしゃくって斎樹さんを指し示す。
それではお礼に来た意味がなくなってしまう。私はあわてて充さんの提案を固辞すべく顔の前で手のひらをひらひらと振った。
「ダメですよ、そういうわけには 」
「真紘、こういう時は、"お言葉に甘えていただきます" って言って、奢ってもらった方が可愛げがあるぞ 」
斎樹さんはクネっと上体を揺らしながらそう言って、ニイッと意地悪そうな笑みを浮かべた。胸の奥に押しやっていた記憶が不意に顔を出す。
『真紘は "遠慮しい" だな。もっと甘えてくれていいのに…… 』
確か、風邪で会社を休んだ時に看病に来てくれると言う彼の提案を、移しては悪いからと断った時だ。あの時の彼は、電話口でもわかるくらいに寂しそうな声をしていた。もっと上手に彼に甘えられていたら、私たちは今も、もしかしたら……。
「おい、斎樹 」
充さんの少し険のある声が遠くに聞こえた。
聴覚が水中に沈められたように周りの音がくぐもり、鼻腔の奥がツンと痛む。
私は、またこの人の前で泣いてしまうのか。きっと、面白がられるのがオチなのに。
ファサッと、何かが頭に被せられた。斎樹さんの着ていたネルシャツの青いストライプが、涙でぼやけてきた視界にぐにゃりと歪んで映り込んだ。
「あー、ごめん……、泣くな、悪気はなかった 」
大きな手が赤子をあやすような感じで、私の頭をぽんぽんと軽くたたき始めた。そのリズムに乗ってポツポツと、斎樹さんの声が片言の日本語のようなぎこちない発音で降ってくる。
それを聞いていたら、なんだか自然と微かな笑い声が漏れ出た。
「ああ? 嘘泣きか? 」
「違います、斎樹さんが笑わせるからでしょ 」
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