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眠りに就いていた店内に明かりが灯る。
"昔ながらの"と言う言葉がしっくりくる。カウンター席が十席ほどの店で、経年からくる飴色の艶が染み出た木製のカウンターテーブルの向こう側はすぐにオープンキッチンになっている。
そして特に目を引いたのが、出入り口のドアのほぼ真上、天井スレスレのところにぽっかりと浮かぶ大きな丸い窓。ガラス部分には色がついていて、照明を反射してオレンジ色に煌めいている。
彼は「お好きな席へどうぞ 」とだけ言い残して、厨房の中に入っていった。
私は少し迷って、隅っこ寄りのスツールに座った。オレンジ色の窓ガラスをぼんやりと眺めていると、ほどなくしてカチャカチャと作業をする音が厨房の方から聞こえてきた。冷え切っていた店内に少しずつ温度が戻り始め、調理をする芳ばしい匂いが漂ってきた。
彼は「何が食べたいか 」とは訊かなかった。私からもリクエストはしていない。けれどなぜか私は、今の自分に必要な何かが出てくるような予感がしていた。
うっすらとした睡魔がまとわりつき始めた頃合いを見計らったかのように、彼が厨房から姿を現した。その手には少し深めの皿が二皿、湯気がゆらゆらと揺蕩んでいる。
コトンと目の前に皿が置かれた。ふわりと、チーズのとろけた香ばしい匂いが鼻先を優しくくすぐる。
「グラタン、ですか? 」
初夏の生暖かさが混じる今の時期には、少し季節外れのような気がする。
彼は私の向かい側に椅子を引き出してきて座り、「とりあえず、食べてみて 」と言ってカトラリーケースをこちらに滑らせた。
チーズが盛り上がった中心部分には、きっと素敵な何かが隠されている。直感に背中を押された私は、ややお行儀が悪いかもと思いながらも、中心部分にスプーンを潜り込ませそっと掬い出した。緩やかに伸びるチーズに混じって、黄色味がかったものがスプーンに掬い取られている。
ひとくち口に含むと、とろりとしたチーズと濃厚な卵黄の甘さが優しく舌の上で溶け合う。グラタンと言うよりもチーズ焼きと言ったほうが近い。
卵黄に隠れていたのは、少し芯の残るリゾット。甘酸っぱいトマト味のリゾットをツナの塩味がアクセントとなって引き立てている。
「美味しいです 」
「そして、ここで取りいだしたるは、コレ 」
彼は芝居がかった風にそう言って、カウンターテーブルの下からずんぐりとした形のディスペンサーを取り出した。ボトルの中は黄金色の液体で満たされている。
「さらに美味しくなる 」と言って、私の前にディスペンサーを置いた。
その色からして、多分、蜂蜜だろうとの予想はつく。そう言えばチーズの上から蜂蜜をかけるピザがあったなと思い出し、夢の中でまだ笑い合っていた須藤くんと自分の姿が脳裏に浮かんだ。私はディスペンサーに伸ばしかけた手をそろそろと引っ込めた。
彼に視線を向けると、不思議そうな顔でこちらを見返してきた。
「まぁ、ちょっと意外な組み合わせではあるけど、クアトロ フォルマッジってピザがあって…… 」
私はどんな顔をしていたのか。彼はそこで言葉を切ると、ディスペンサーを自分の方に引き寄せ、レバーを握って自分の皿の上にたらたらとたらし始めた。
たらたらと、チーズの上に黄金色の線が描かれていく。あの蜂蜜の重厚な甘味とチーズの塩味が混ざり合う味が舌の上に再現されていくのを感じて、私はきゅっと唇を噛んだ。
「嫌な思い出があるなら、上書きしたらいい 」
ハッとして彼に視線を向ける。
「えと……、どうして……? 」
「超能力とかだったら面白いんだろうけど、タネ明かしすると、寝言でいろいろ言ってた。須藤くんって彼氏か何か? 」
すべてを見透かすような彼の深く澄んだブルーの瞳に捕まり、目を逸らすことができない。
「彼氏と言うか……、元彼です。少し嫌な別れ方をしちゃって 」
彼は「ふーん 」と興味なさげに呟きながらカトラリーケースからフォークを取り出し、チーズの膜の下から赤く透けているトマトらしきものに突き立てた。そのままグッとチーズに潜らせてから蜂蜜を絡めとって、私の目の前に差し出した。
「食べてみたら? 多分、あなたの記憶の中の味より美味い 」
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