2. 失恋ガールの甘やかしチーズリゾット

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 チーズをこんもりと被ったトマトの上で、キラキラと蜂蜜が照明を反射して煌めく。魔女の甘言に惑わされ、リンゴを食べてしまった白雪姫はこんな気持ちだったのかもしれない。  私は何かに突き動かされるようにフォークに手を伸ばし、ゆっくりと口に含んだ。チーズの風味がブワっと口の中に広がり、すぐに蜂蜜の甘さがチーズの塩味に纏わりつく。グッと噛んだトマトから熱で温められた甘さが滲み出て、チーズと蜂蜜のハーモニーに彩りを加える。 「美味しい……です…… 」 「だろ? 」  彼は "してやったり" と言いたげにニイッと笑った。  その彼の笑みに絆されたのか、蜂蜜とトマトの甘みがどこかに触れたのかは分からない。ツゥッと生温かいものが頬を伝い、私は慌てて手で抑えた。けれど、一度堰を切ってしまった涙腺は自分の意思ではもう止められない。 「す、すいません…… 」 「いいえぇ、ごゆっくり 」  そう言えば、須藤くんと別れることになってから一度も涙を流していないことに気づいた。いや、川原さんとの "逢瀬" を目の当たりにした後でさえ私は泣けなかった。  グズグズと鼻をすすりながら残りのチーズリゾトを啄んでいると、コポコポと呟くような音が転がってきた。ほどなくして香ばしいコーヒーの匂いが鼻先くすぐり始める。  コトンと、小ぶりなマグカップがリゾットの皿の隣に置かれた。琥珀色の湖面から立ち上るやわらかな湯気に、涙を落としながら毛羽立っていた心が柔らかくほぐされていくようだ。 「ミルクと砂糖は? 」 「えと、ブラックで 」  "ここまでしていただくわけには…… " と、言いかけたタイミングで差し込まれた声に、私は反射的に答えていた。  その濃いめの香りに反して舌触りはとても滑らかで、喉をするすると伝っていく。私は一口、二口とすする度に、心につっかえていた、ざらざらとした澱のようなものが流れ落ちていくような感覚を覚えた。  店内で不思議な存在感を放っていた丸い窓は、外から見るとまた違った姿を見せた。ビルの壁面に嵌め込まれたダークブルーのタイルは、さながら夕焼けのようなオレンジ色の窓を包み込む宵闇のようだ。  窓の真下に取り付けられたスカイブルーの(ひさし)の上には、白く色付けされた店名らしきアルファベットが戯けるような様子で並んでいる。 「オラン……ゲッ? 」 「ORANGETTE(オランジェット)。オレンジにチョコかけた菓子、あるでしょ 」  彼にそう言われてもう一度窓に目を向けると、夕焼け空に見えていた窓がどうしてもオレンジの輪切りにしか見えなくなってきてしまった。  ふわぁぁと、背後から欠伸を吐き出す声が聞こえてきた。私は彼に向き直って、深々と頭を下げた。 「今日は本当にご迷惑をおかけしまして。いろいろ、ありがとうございました 」 「まぁ、こっちも面白いものが見れたから、おあいこってことで 」  私は、彼が何をもってして "面白いこと" と言ったのか分からずに返答に困った。"アレ" かもしれないし、ともすると "アレ" の事かもしれない。 「案外、性格悪いんですね 」 「あ、よく言われる 」  彼はあっけらかんとそう言って、クツクツと笑った。なんだかここに漂う空気が心地よく、ずっとこんな風に彼と冗談を言い合っていたいような気持ちになってきて困ってしまった。 「あそこのポストの角曲がって、まっすぐ行けば駅だから 」  私はもう一度彼に向かって頭を下げ、駅に向かって歩き出した。 「あっ 」  店を出てから数メートル、はたと、まだ彼の名前を聞いていないことに気がついた。反射的に振り返ると、そこにもう彼の姿はなく、店の電気も消えてしまっている。  なんだかキツネにでも摘まれたような気がして、そっとお腹の辺りをさすると、ポウッと暖かな何かがそこに籠っているような気がした。  名前は次の機会に聞けばいい。  それはそんなに遠い未来ではない気がした。
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