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白坂さんがフォークでオムレットを摘み始めた頃合いを見計らって、私もオムレットに取り掛かる。
白坂さんが食べていると、そのどこか高貴な佇まいのせいか見るからに洗練された所作のせいなのか、一個数百円のお菓子がまるでフランス料理のように見えてくるから不思議だ。
「あの、白坂さんは——」
「あ、充でいいよ。なんなら、充ちゃんでもみっちゃんでも 」
「じ、じゃ、充さんはバーテンダーか何かなんですか? それとも、パティシエとか? 」
充さんは言葉を探しているような表情で、宙に視線を泳がせている。私は何か答え辛いような質問をしてしまったのだろうかと、少し不安になった。
「僕は—— 」
充さんの視線がふっと出入り口の方に飛んだ。数コンマ遅れで出入り口のドアが開く音がする。カランカランと年季の入ったドアベルの音が店内に響き、私がそちらを向いた時にはそこに一人の男性の姿があった。
「充、伽耶がみんなで食べてって、コレ…… 」
手提げの紙袋を片手に掲げながら入ってきた男性の視線が、私の前でピタリと止まった。あの夜の彼だった。遠くのものに焦点を合わせるように眉間に皺を寄せこちらをじっと見ていたかと思うと、数秒コンマ後、求めていたものに行き当たったのかぱっと目を見開いた。
「あ、リバぁ—— 」
「宮野 真紘です 」
私はその言葉をもう二度と聞きたくないというくらいの勢いで、彼の言葉を遮った。
彼は一瞬きょとんと固まり、次の瞬間、風船が破裂したように笑い始めた。
「あなた、真紘? やっぱり面白いな 」
「いきなり呼び捨て……? 」
思ったことが口からこぼれていたらしい。
彼の纏う空気がそうさせるのか。ここにきたばかりの時には確かにあった畏まった遠慮は、いつの間にか消えてなくなってしまっている。
「そういう文化で育ったもんでね。"ちゃん"とかないわけだ。なんなら、ミズ・宮野? 」
「いや、それはむずむずするのでやめてください 」
彼はまたクックッと愉快そうに笑い始めた。何がこうも彼の笑いのツボをつくのか、私は一向に理解できずにいる。
ふうっと、少しだけ苛立ちを含んだようなため息が聞こえた。視線を向けると、こちらに呆れたような視線を送っている充さんと目が合う。彼は私に気づくと、一瞬だけ笑みを浮かべた後、笑いを止められないでいる彼の方に冷ややかな能面のような表情を向けた。
「イツキ、とりあえず座ったら? 」
「イツキ……? 」
どうやら、今日は思ったことは瞬時に口をついてこぼれ出してしまうらしい。私の呟きに、彼が笑うのを中断して反応する。
「ああ、オレの名前。二番目くらいに難しい "サイトウさん" の "斎" に、難しい方の"樹"で、斎樹 」
私が斎樹さんの妙ちくりんな説明を頭の中で噛み砕いていると、彼は笑いを堪えながら私の隣の席に腰を下ろした。
その瞬間、ふわっと、香水ではなさそうな、それでいて柔軟剤でもないような、ギュッと濃縮した柑橘系の匂いがまるみを帯びたような香りが鼻先をくすぐった。胸の奥の方で、ポゥンとメールの到着を知らせる電子音みたいな音が鳴ったような気がした。
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