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繭と僕と繭
しばらく前に、雅史は妻と別れた。
子供達が巣立った後だったのはせめてもの救いだった。独身時代に戻ったような感覚だ。
でも、傷跡のような寂しさが生々しく胸の中で疼いている。
妻はもともと会社の同僚で、雅史の同期だった。
自己紹介の日。彼女が現れると、一輪の花を飾ったようなまばゆさに社内の空気が明るくなる。
丁寧な言葉遣いと物腰柔らかな所作を目の当たりにし、男性達はいっせいに心を撃ち抜かれた。
社内における彼女の立ち位置はアイドルそのもので、下僕扱いの雅史とは大違いだった。
けれど、そんな彼女に「付き合ってもらえますか」と告白されたのは雅史自身だった。
公衆の面前での告白に激震が走る。男性諸君はいっせいに崩れ落ちた。雅史は混乱の極みにいたが、沈黙は了承と解釈された。
そして彼女は雅史のプロポーズに迷いなくうなずき、ふたりの子供を授かった。彼女は不思議なくらい、幸せそうだった。
振り返ると、最後までわからないことばっかりだった。
なにせ彼女がどんな生まれ育ちをしてきたのか、雅史はまるで知らなかったのだ。
高校を卒業すると同時に上京したことまでは聞いていたのだが、雅史と出会うすこし前に両親が亡くなったらしく、だから彼女の故郷は雅史にとって未知の領域だった。
それにいつだったか、「わたしがいなくなったら一度くらいは足を運んでみてよ」と言われた記憶があった。
だから雅史は、彼女の故郷を訪れてみようと思い立ったのだ。
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