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これ以上の恐怖を私はまだ知らない
今頃、お互いの家はどうなっているのだろか。
私の家族は「探さないでください」と書かれた私の置き手紙を読んだかな。
貴方の家庭は自分の欄だけ正確に書き込まれた離婚届に気付いたのかな。
連絡したくともするわけにはいかず、ただ悶々と重いものが腹にあった。
月のスポットライトを浴びて行われた誓いのあと、海沿いに車を走らせていたらラブホテルが見えた。
「今夜はあそこに泊まろう」
どちらからともなく言い出した。どこか適当に入ったスーパーで買った安いお弁当を持って、二人ドキドキしながらカギを受け取りその部屋番号へと目指し歩いた。
ラブホテルにはいい思い出しかなかった。
閉ざされたあの部屋だけが、唯一貴方と抱き合える場所だったから。
清潔な部屋で思うさま愛し語らうことが出来た。
見たい映画や豊富な有線、選べるシャンプーや充実したルームサービス。
あっという間に過ぎる時間だけが、いつも本当に悔しかった。
初めて一晩共に過ごせる!
多少の不安はあれども、私は喜びと期待に胸をこれでもかと膨らませていた。
───だが、
扉を開ければ目の前に階段があった。
五十センチもないドアそのままの幅。
壁のような階段だった。
予想外の光景に少し唖然となった。
それでも今更キャンセルするわけにもいかず、私たちはその急な角度を登り切った。
部屋の中は薄暗かった。
広さは八畳ほど。
今まで行ったどのラブホテルより天井が低い。
妙な雰囲気が漂っていて、息苦しいほど空気が淀んでいた。
換気扇を付けるとむやみやたらにうるさくて、正体のつかない匂いが充満した個室が恐ろしかった。
私たちは何も言わず弁当をつつきだした。
胸が詰まってるというか、なにかが膨らんでいっぱいというか、とにかく食べにくかったがお茶で流し込んでなんとか食べた。
食べても気は休まらず、気分を変えたくて有線をつけようとなった。私たちの知る有線のチャンネル選択は、軽く百を超える。そのチャンネルの中から私たちはいつも洋楽を選んでいた。
けれどそこの有線は十ほどのチャンネルしか存在していなかった。……仕方なく、一つだけあった洋楽を選んだ。
なのに何故か薄っすらと演歌が聴こえてくるのだ。
ポップなメロディの後ろから何処からともなく聴こえる演歌。違うチャンネルに変えるもやっぱり演歌は追いかけてくる。
それがあまりにも怖い。かなり怖い。
ただでさえ不安で不安でたまらないのに、どういじっても演歌はホログラムのようにその存在を主張してくる。
結局、有線は消した。
無言の部屋は気持ち悪かった。
演歌以外の音が欲しかった。
今のように音楽が持ち運べる時代でもない。
珍しくテレビも置いていなかったので、始終無音だった。
あれは───本当に辛かった。
音楽は諦めてお風呂にでも入ろうとなった。
会話は弾まない。
だんだんと葬式のような空気になりつつある。
不安というバケモノが二人の心を少しずつ食んでいるのが分かっていたから、私たちはひたすら明るい話題を探した。
ラブホテルの風呂というのは、当たり前だが二人で入ることが想定されているため、風呂桶も洗い場も広い。掃除も設備も気遣いも行き届いていて、家のお風呂では出来ない楽しみ方がある。イチャつくための諸々もそうだが、本当に良い所だと防水テレビなんかも付いていて、二、三時間入っても飽きることがない。
───だが、その風呂は普通ですらなかった。
垢のこびりついた浴槽。
どことなく不気味な光源。
ノズルがガタガタのシャワー。
所々剥げた紺のモザイクタイル。
何年前だと叫びたいほどのデザイン。
張り詰めていた糸がふつりと切れるには充分で。
コップの表面張力で耐えてた水が溢れるみたいだった。
吐きそうになるのを必死でこらえながら、抱き付いて怖いと泣いた。
貴方は何も言わず私の頭を撫で続けてくれた。
貴方も───相当な恐怖を感じていただろうに。
自分たちの立場をまざまざと思い知らされ。
それでも後戻りのできない現状に。
心が砕かれまいとただぬくもりだけを欲した。
風呂からあがれば時間は夜中の一時を超えていて。
明日のため、ベッドに入って必死に寝ようと努力したが一睡もできなかった。
色んな緊張で体は疲れていたはずなのに。
それでも、私たちは最後まで言わなかった。
───帰りたい、と
いや、出せなかっただけかもしれない。
下唇を噛むように音にしなかった。
ここまで一度も、そんなことを思わなかったのに。
私たちはやっと。
この時、やっと。
事の重大さを知り得たのだ。
自分たちのしでかしたこと、罪の重さを───この瞬間初めて後悔した。
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