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――たぶん、ジェスター様の正体は芸術家だ。
そして、この学園のなかで美術に造詣が深い者なんてかぎられている。
放課後――。
写真部の部室を訪ねると「入っていいぞ」とうながされた。乙戸辺の声だ。入室するが彼はいない。だが、居所はわかった。暗室の扉がわずかに開いていて、学生服の背中が見えたのだ。
三年生に進級すると制服姿が窮屈に見える生徒もいるものだが、乙戸辺はそうでもない。むしろ、黒の詰襟が妙にしっくりくる。そういう学生だった。
昨年は、兼部先である美術部にも毎週欠かさずきてくれた。カンバスの前に座って筆を握り、課題の自画像を描きながら、写真家は自分は撮らないってのに、と笑っていたのを思い出す。
彼のことは、美術部に入部してからずっと頼りにしてきた。尊敬できる、いい先輩だと思う。
「また、暗室作業ですか」
暗室は二畳ほどの小部屋だ。
フィルム写真の現像は光を遮断した暗所で行わなければならない。撮影後、薬品を用いてネガフィルムに像を定着させ、機械で大きく引き伸ばしてから、感光材が塗布された印画紙に焼きつける。そうした昔ながらの手法でプリントされた写真を銀塩写真という。
乙戸辺は銀塩写真の愛好家でもあった。デジタルカメラにはない、独特の味わいと手間に惹きつけられて始めたそうだ。
「鯨坂の歴史文化遺産だからな。……学校ってのはいいな。古いものがまだそのまま残ってる」
「先輩も物好きですね」
「まあ、な。去年さ、世話になってた写真屋が廃業したんだ。時代の流れってやつ。ライカを持ってたところでおれは、逆立ちしたって黎明期の写真家にはなれない。けど、だからこそ、こういう泥くさい手仕事に憧れるのかも」
そう語る乙戸辺の声色は穏やかで、これから為すべきことに躊躇いを覚える。あきらだってこんなことをせずに済むならやりたくはない。穏便に事を流してしまいたい。
けれど結局、それができないからここにいる。
「で、美波。おれに話したいことあったんだろ」
暗室に居残ったまま、乙戸辺が振り返る。
「昨日の夜、美術室からピエタが消えたんです」
「また相談か?」
「いいえ――告発です。美術室にはピエタの代わりに、ある少女を象ったマネキンの首が現れました。その子の名前、わかりますか」
あえて遠まわしに尋ねた。それだけで、乙戸辺は腑に落ちたようだった。わずかに表情を曇らせた彼は、小さく眉根を寄せてつぶやく。
「ああ、そういう……そういうことか」
「乙戸辺先輩。暗室の中を見せてもらってもいいですか」
「……わかった」
暗室に足を踏み入れると、なかは独特の臭気で充満していた。鼻の奥がつんとするような微弱な刺激臭は、気化した現像液の臭いだろう。狭く、暗く、度重なる洗浄作業で薄汚れた空間だ。
目に入るものはかぎられている。ウッドピンチで吊されたネガフィルム。流し台に置かれたバット。無骨な顕微鏡を大きくしたような引き伸ばし機。授業では習わない化学式が記された薬品の瓶。
そして――クリアケースに詰められた蒼白のピエタ。
壁際の死角に隠すようにして置かれたそれは、小部屋を彩る調度品のようでありつつも明らかに異質な美の象徴だ。
そしてこれこそが、逃れられない証拠だった。
「……先輩。先輩が、ジェスター様ですか」
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