Case.1 人造乙女殺害事件

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 声が震えた。動揺を悟られないように顔を上げて、せめて正面から彼を見据える。乙戸辺の顔色に変化はなかったはずなのに、その瞳には哀愁がのぞいていた。 「質問に答える前にこっちからも尋ねても?」 「どうぞ」 「美波に訊いておきたかった。持たざる者にとって、持てる者は嫉妬と羨望の対象だ。だが、それが異性ならどう思う?」 「なんですか、急に……」 「悪いけど、女子の気持ちなんておれにはわからない」  一瞬、耳を疑った。乙戸辺があまりに強い語調で言い放ったから。 「授業で生理を習ったところで経験ないしな。将来妊娠の予定もない。臓器の有無、ホルモンバランスの違い、X染色体とY染色体……生物学的、科学的な裏付けをもってして、おれたちはべつの生き物だから」  あきらが黙っていると、催促もないのに彼は語り続ける。 「ほら、猫って可愛いよな。犬だって可愛い。同じように、女の子って可愛いから……消費できる、そう考えるんだよ。……少なくとも、おれは男で、そういうふうに生まれたらしいから」  そう言い残して、暗室から去ろうとする乙戸辺の背をあきらは追いかける。タイミングを見計らって、窓辺に腰を落ち着けた彼の名前を呼びかける。鯨坂への入学から一年以上、美術室でそうしてきたのと同じように。 「乙戸辺先輩」 「なんだ?」 「屁理屈をこねて、馬鹿なことを嘯いて、満足ですか」 「……まあ、美波にはバレるか。昨年は散々、おれの絵のうわっつらをしれっと非難してくれたもんな」  記憶が改竄されている。乙戸辺の絵にはセンスはあったが、優れた出来のもは少なかったから、褒めなかっただけだ。  あきらだって上級生に対して真っ向から反発するほど無鉄砲ではない。今日が例外なだけで、普段ならばそうだ。 「しらばっくれようとしたことは謝る。けど、おれはジェスター様じゃないよ」 「ならどうして」 「……協力者だった。あいつと取引したんだ」 「どういうこと、ですか」 「事情があるんだよ……最初から話せばいいか? 〈テラリウム〉で知りあったんだ。美波たちには黙ってたけど、自分で撮った写真を投稿してて。おれの撮影した写真を買うって言うから、言い値で売ってた」  それから乙戸辺とジェスターの取引関係は、春先から半年ほど続いた。学校生活での悩みを打ち明けられる、貴重な存在だったという。あきらにとってのネモのような友人が、乙戸辺にとってはジェスターだったのだろう。 「あいつは人心掌握術に長けた悪魔だよ。けど、その口車に乗せられたおれも悪い。……あいつに吹部(すいぶ)のマーチング大会のことを話したら、写真を撮りにいけっていわれて、それで」 「先輩、まさか」 「現像してネガをデータにして……売った」  思い返せば、近ごろの乙戸辺は羽振りが良さそうだった。  少なくとも、美術部に頻繁に顔を出していた頃の彼には、隠れてアルバイトをしているような素振りはなかった。三年に進級し、部から退き、〈テラリウム〉でジェスターと出会ったのだ。 「すぐに目立つ女の子がいるって話になったよ。データを渡してしばらくして、そしたらあいつから画像が送られてきたんだ。……名鳥と同じ顔をした女の子の」  学生服の少年は、悲痛そうな面持ちをして目を伏せる。  ――これは、誰だろう。握りしめた拳をそのままにした彼を正面から見つめながら場違いなことを思った。乙戸辺が何かに憤るのを、あきらは初めて目にしていた。 「気に入ったから人形にした! 欲しいだろ? ――って。あいつは愉しんでたんだよ! 〈テラリウム〉に噂話をばら撒いて、おまじないの実績を示すフェイク投稿を作って、美術室のピエタをまつりあげるのには協力したさ! けど、あれはやりすぎだった。おれがいらないなら他のやつに譲るって言って、サブアカウントで募集かけはじめやがって……慌てて引き取ったよ」 「それは、どうして」 「処分するつもりで引き取ったんだ。おれのせいであんなものがつくられたなら、最後まで責任はとるべきだろ。それで……壊すことはできたんだ、顔以外は。けど、甘かったな……」  ああ、と彼が濁した言葉尻から察する。乙戸辺がジェスター様ではないのなら、答えはひとつしかない。 「ジェスター様は学園にいる。あの地震があった日に盗まれた――そうですよね」  あの日、地震発生の緊急時、乙戸辺のとった行動はきっと適切だった。あきらと夏織に身を隠すように指示して、いち早く二次被害に備えた彼は、勇敢で聡明に見えた。  いつだって乙戸辺はそうだった。年の頃はたった一年しか変わらないというのに、大人びていて理知的で。頼りになる男子の先輩。その背中を見てきたのだ。  けれどもしも、あの時。乙戸辺にとって最も大切なものが暗室に隠されていたのだとしたら。  彼の行動の意図は、まるでちがって見える。  ――それを責め立てる理由はあきらにはない。  そして、美術室の扉を開けたままにした真木と同様に、乙戸辺も写真部の部室を施錠せずに体育館に向かったのだろう。その一瞬に犯行は行われた。ピエタ首像と人造乙女の首は入れ替わり、あの夜のうちに聖母は青く染め上げられ、乙女は少女の心を屠った。 「ああ、そう……。よくわかったな」と、乙戸辺が力なく告げる。どこか疲れた顔をしたまま彼は、片手で前髪をくしゃりと掻きあげる。
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