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「ときどき美波が羨ましいよ」
「私が?」
「そう。おれは名鳥が好きなんだと思う」
「……本人に伝えてくださいよ」
「けどさ、これはリビドーを伴わない『好き』なんだよ。欺瞞かもとは察するけど、どうあっても釣り合わない相手を、手に入れたいとは思えない」
「先輩」
「悪い。女子にする話じゃないよな」
「……面倒な『好き』ですね」
率直な感想だった。気遣いの言葉はまたしてもうまく出てこない。
だれだれが好き。付き合ってる。付き合いたい。彼氏ができた。彼女がいる。真木が入部するまで美術室には、そうした憧れを語らう時間が欠けていた。だから居心地がよかった。夏織は浮世離れしているし、乙戸辺は詮索をしない。ただ、それでも、少なくとも彼は恋をする生き物だ。
辛そうに、それでも幸せそうに、恋を語る彼らの気持ちが、あきらにはわからない。きっと生涯、誰かと同じ温度では心を共有できないのだとも思う。
顔を上げると、作業机に数枚の写真が散らばっているのに気づいた。
被写体はマーチングバンドだ。吹奏楽部の面々が、隊列を組み、行進をしながらそれぞれの楽器を奏でている。トランペット隊の先頭にたつのは光梨だ。
輝くような笑顔を振りまく少女は、とりわけ大きく切り取られていた。
何枚も。何枚も。何度でも。
――記録に残された彼女は無邪気に笑いかける。
写真は幸せな時間を映しとるから残酷だ。あきらは自宅の書斎の写真立てに、まだ夫婦だった頃の両親が映っていたのを思い出す。二人は恋をして夫婦になったのだろう。病める時も健やかなる時もと誓いもしたはずだ。けれど、最悪に近いかたちで離婚をした。そのことはもう恨んではないし、すべては過去で、市井にありふれた悲劇だと思う程度には諦めがついている。
ただ、悲劇の結果、残された子供はどう生きるのが正解なのか、あきらはまだ迷っている。
「まあ、厄介なんだよ。おれたちみたいな考えすぎる人間には、この問題はさ」
「それなら、どうするつもりですか。こんなの、光梨には見せられない」
「ネガごとこっそり燃やすよ。額縁に入れて飾っておきたいような好き。おれにとって、名鳥はそういう偶像崇拝の対象」
「偶像崇拝って……生きた人間ですけど」
南向きの窓からさしこむ西日がいやに眩しい。逆光に遮られて、乙戸辺の表情が直視できない。
視線をそらすと、部室に四方を埋める過去の残像たちがわらいかけてくる。写真は、被写体のためだけにあるわけではない。どれだってひとつ残らず、そこにいた撮影者の存在をたしかに証明するものだ。
思い出の箱のような薄暗い部室で、ふたりだけが現在を生きていた。まるであきらを包囲するように、風景が、校舎が、教室が、あの少女が、写真の中に色褪せたまま残っている。
「遠景で眺めるだけで満足だから。きれいな上澄みだけ消費して、おれは傷つかないまま恋がしたい。想いわずらって清水の舞台から飛び降りるなんてもってのほかだし、縁結びの神様をあてにして願掛けをするほど深刻でもない。だからさ、名鳥はおれにとってのピエタなんだろうな」
彼は語る。きっとそれが乙戸辺にとっての恋なのだろう。
そう、忖度はできる。
でも――その痛みには同情はできない。あきらが誰の味方でいるかなんて、最初からもう決まっていた。
「乙戸辺先輩は、あれを見たあの子がどんな反応をしたか、知ってますか」
「……ごめん」
「……言い分はわかりました。先輩のことは尊敬していましたし、感謝もしています」
この一件で光梨が取り返しのつかない傷を受けたのなら、横たわるこの溝はもう埋まらないだろう。むしろ、謝るべきは自分のほうだ。予感がある。あきらがこれからすることは、乙戸辺を悲しませるだろう、と。
ただ、それは、手を留める動機にならない。
――ひとりはひとりのために。
同盟者として出来ることなんてもう、これくらいだ。
作業机に放置されていたレンズを掴みとり、天井に向けて高く掲げてみせる。あきらが宣言をするよりも早く、乙戸辺は次の行動を察していた。その証拠に、まずは瞳が凍りついた。顔面蒼白としたまま、彼が叫ぶ。
「それ、報酬で買った望遠……!」
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