Case.0 美術室の遺書

3/5
前へ
/90ページ
次へ
『十年後のあなたへ  あなたがこの手紙を読むころ、わたしはもう隣にはいないのでしょう。  あなたは、いま、誰かといますか? それとも、変わらず独りで黄昏ているのでしょうか?  そこはちょっとだけ、心配です。一匹狼なんだから。  この町で、この美術室で、あなたはいつもどこか遠くを眺めていましたね。  外の世界の言葉や、耳慣れない音楽。都会の人たちが語るような批評や評論。教室では無口なのに、あなたは本当はたくさんのことを知っていて、胸に秘めている尊い熱を、わたしだけにこっそり明かしてくれる瞬間が好きでした。ひょっとしたらスノッブを気取っていたのかもしれないけど、そんなところが魅力的に見えていたんです。  だって、わたしも、あなたといるときはいつも見栄を張っていたものだから。  ねえ、気づいてた? わたしは臆病で、弱気で、中途半端で、折れてばかりの、どうしようもない人間なんです。  誰にも見向きもされないまま、道端の雑草のように踏みつけられて、ひしゃげたまま終わりにしたってよかった。けど、隣に居たくて、もう少しだけと思ううちに、卒業式を迎えてしまう。  きっとそうするうちに、見過ごすことが上手くなって、きちんと大人になれるのかしら。あなたの前で、みんなの前で、わたしはわたしのまま、うまくわらえるようになるのかな。  そんな未来があればいいのにね。今でもずっと、そう思うの。  あなたは覚えていますか。あのころどうなりたかったか。わたしたちの願いの在り処がどこにあったのか。わたしは、ちゃんと覚えてるよ。  だから、何もかが平気になってしまう心静かな季節を受け入れるまえに、本懐を遂げることに決めました。  これでいいんです。最初からこれだけを求めていたんだから。  ここに最後の書き置きを残します。  町に春が来るよりも先に、わたしはこのちっぽけな命を絶ちます。    さようなら。  あなたと一緒に過ごせた日々は、わたしの人生にとって、数少ない幸せでした。』
/90ページ

最初のコメントを投稿しよう!

20人が本棚に入れています
本棚に追加