9.小さな幸せ【冬樹】

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9.小さな幸せ【冬樹】

後日産科に行くと、やはり妊娠していると言われた。アフターピルを飲んだのに、と医師に食ってかかると初老の産科医は「100%防ぐことはできないからね。相性やタイミングもあるから」と静かに言った。 相性なら良いに決まってる。だけど、発情期でもなかったのに――。 さすがの豪も堕ろせとは言わないはずだ。だけど、卒業まで自由にしようと言って憚らない彼だ。話せば迷惑がられるに違いない。厄介者だと思われるのはなるべく先延ばしにしたかった。 「お腹が出てきてバレるまで黙っておくか……」 そしてそれから数日後。僕はちょっとだけ具合が悪いからと大学にも行かずに部屋でダラダラしていた。 マイリストに登録するだけして、ずっと見ていなかった映画を一気見するため僕はベッドに転がった。 つわりで最近唾液が苦くて、いつもキャンディを舐めてる。今までそんなもの買ったこともなかったから、どれがいいかわからなくて色々買ってきた。それを全部ベッドの上に並べた。そして、ポテトチップス。 「これで完璧」 ポテトチップスもほとんど食べたことは無かった。親が厳しくて「体に悪いから」とこういうスナック菓子は食べさせてもらえなかったのだ。 だけど、妊娠してからずっとしょっぱいものが食べたくて、一度手を出したら止まらなくなった。 「なんで皆これを食べるのかわかんなかったけど、めちゃくちゃ美味しいんだな」 やばい薬でも入ってるんじゃないの、と成分表示を見るけどイモと油と塩としか書いてない。本当かな? パリパリとそれを齧り、合間にキャンディを舐めながら僕は映画を見ていた。 ホルモンバランスの変化のせいか、何を見ても泣ける。いい話でも、悲しい話でも、笑える話でもずっと馬鹿みたいに泣いてた。 何本か立て続けに見て、今度はホラーでも見ようとわざわざ電気を消し、冒頭のシーンを眺めていた。ヒロインが屋敷内でどんどん追い詰められ、部屋の中の物陰で息をひそめているとその部屋のドアがギギーっと音を立てて開く。 そしたら、僕の部屋の玄関ドアが勝手に開いて背の高い男が現れた。僕は恐怖に息を呑んだ。 「冬樹」 声を聞いて、豪だとわかってホッとした。彼は僕の周りの惨状を見てびっくりしていた。きれい好きな彼はベッドで物を食べるなんて絶対しない。散らかった汚い部屋で彼は鼻歌交じりにゴミを片付け始めた。そんなアルファの美青年の姿は目の前の映画よりずっと現実感が無かった。 その後機嫌良さそうな彼が僕を当然のように抱こうとした。ホルモンのせいで僕はやたら寂しい気分だったし、本心としてはお腹の子の父親である彼に甘やかしてほしかった。だけど、安定期を過ぎるまでセックスはしない方が良いって何かで読んでいた。だから、断らないとだめだ。 それなのに豪はいつも僕が嫌がって見せるのと変わらないと思って、強引に身体を重ねてきた。優しい言葉をかけられながら彼に見つめられたら「もっと」と言ってしまいそうで、僕は必死で目を逸らしていた。中学生の頃、彼の視線から逃げていたときを思い出す。目を見たら、好きという気持ちが溢れてどうしようもなくなりそうでいつも怖かった。 ただ、お腹の子のためにも中に出されるのだけはどうしても嫌だった。なので必死で抵抗したら、彼は途中でやめて体を離した。そして来た時とは打って変わって不機嫌そうに帰っていった。 中途半端に体が昂ったままで放置されて困ったけど、久しぶりに豪と触れ合えたのは嬉しかった。お腹に彼の子がいるからなのか、前よりも豪といるのが苦痛じゃない。彼のそばにいることの違和感が少ないような、ちょっとした心地よささえ感じた。 ◇ それから、つわりが一層きつくなった。本当に起き上がれないくらいで、自力で何とかするのは諦めるしかなさそうだ。しつこく僕の様子を聞いてきた遼太には妊娠したことを打ち明けた。すると彼は僕の様子を見に来てくれた。 「先輩、ポカリ買ってきました! あと、フルーツと、ヨーグルトも。冷蔵庫入れておきますね」 「ありがと……」 遼太は僕の身体を起こしてポカリスエットを飲ませてくれた。 「先輩……大丈夫なんですか」 「大丈夫だよ。気持ち悪いけど、赤ちゃん元気な証拠だってさ」 「そういうことじゃなくて、彼氏さんのことです」 「ああ……」 「ここに彼氏さんじゃなく俺が来てる時点でヤバくないですか。話したんですよね?」 「いや、それが……」 「もしかしてまだ話してないんですか!?」 「うん……」 その後は遼太に「ちゃんと話し合わなきゃダメだ」と叱られた。それは僕もわかってるけど、今は豪と揉めたくなかった。なるべく、宝物をこのお腹の中に宿してるという気分を誰にも邪魔されずに味わっていたかった。 豪から貰ったものは全部大事。アクセサリーや時計だと他人に「お前ごときが何様?」って思われるのが怖くて身に付けられない。だけど、赤ちゃんとはずっと一緒にいても誰にもとがめられない。 最初妊娠を知った時はどうしようって思った。だけど、今はこの子がいれば最悪豪が僕との結婚をやめると言っても寂しくない。 豪のことは独り占め出来ないってわかってる。だけど、この子は違う――。 「先輩、妊娠したことも言えないような相手で良いんですか? 先輩から別れるべきじゃないですか。まだ番になってないんだから今なら間に合いますよ」 「え――なんで?」 僕から豪と別れる? ――そうか、僕はもうこの子を貰ったから……運命だからって豪を縛り付けるのをやめるべきなのかな……。 そうぼんやりと思ったとき、スマホに通知が来た。豪からのLINEだった。
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