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月が出ている夜道 そんな夜道を、二人で歩くことがとても楽しかった。 その日も二人で小さな小劇場の演劇を観てから一緒に帰路についた。 演劇に詳しいあの人は、色んな演技論の話をしながら私に熱く語ってくれた。 私はあんまり小難しい事はわからないけれど、自分が観たままの感想を彼に話してちょっとだけ議論した。 そんな時間が楽しかった。 もうすぐ私が住む家が見えてくる頃…。 すると彼はまだまだ話したいことがあるからか、いつも道を間違えて、違う路地に入って歩いていってしまう。 私も間違えてる事は分かっていたけど、そのまま何も言わないで、いつも一緒に歩いて行った。 彼ともっと話していたかったから。 彼は途中でわざとらしく道を間違えた事に気がついたふりをして、下手くそな演技で私に謝ってくるけど、いえ、いえ、私の方も気がつかなかったら別にいいのよ、と私はいつものように答えて、そのまま今来た道を引き返すこともなく、そこからまた遠回りな違うルートで帰ることにして、そのまま彼と話し続けた。 彼はまた小難しい演技論の話をずっとし続け、わからないところもあったけどそんな話を聞いてるのが私には楽しかったし、私は私なりに意見を言った。 彼は私の感想や意見をちゃんと受け止めてくれて、たまには反論しながらも、随分と楽しそうに私の話を聞いてくれた。 本当ならバスに乗って15分で家に着くところを、バスに乗らずに二人で45分かけて歩いて、そこからまたわざと道を間違えて、結局1時間半近くも歩き回って私は自分の家に帰るのが常だった。 でもその1時間半が、私にとっては、至福の時間だった。 ちょうどこの1時間半経った時間が私の実家の門限だったから、そのギリギリの時間まで私はその至福の時間を味わっていたかっただけ。 その頃、彼とはもう1年近く付き合っていたけど、やっと1年経って帰り道にちょっとだけ二人で手を握り合って帰るというくらいで、中々それ以上進展する事はなかったし、彼はあくまで紳士的に私を家に送り届けてくれる役割を演じ続け、家に着くと私の両親に極めて好青年な挨拶をして帰っていった。 今日も別れ際に、また明日小劇場の前で待ち合わせする約束をした。 彼は演劇の話で熱くなると止まらなくなるくらい情熱的な人のくせに、信じられないくらい真面目な人だった。 自分も前は舞台に立って演劇をやっていて主役まで張っていたような人だから、見た目だってなんだか王子様みたいな端正な感じなのに、妙に真面目な人だった。 演劇の話を聞いていてわかったけど、たぶん彼の中には、自分自身で忠実に守らなければいけない倫理だとかモラルってものが確実にあって、それに忠実に生きている人のように思えた。 でも私はそれでもよかった。 彼と一緒に、よくわからない話を聞きながら、私も少しだけ口を挟んで、ちょっとだけ議論みたいなことをして、結局1時間半もかけて歩き回って門限ギリギリに帰ってくる、あの至福の時間が私にとっては全てだったから。 彼の他に、私には何もなかったから…。
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