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彼は言った。 若い頃演劇が好きで、よく小劇場で演劇を見ていた。 自分でも演劇をやって舞台に立ったことがあるくらいだから、かなりのめり込んで好きだったらしい。 ある日、「ゴドーを待ちながら」の舞台を見ていた時、たまたま隣り合わせた女性と話をするようになり、それから彼女と一緒によく芝居を見るようになった。 演劇を見た帰り道は、今見た舞台の感想などを言い合ったりして、色んな話をしながら彼女を実家の家まで歩いて送って行き、また次の日も一緒に舞台を見るということを繰り返していたらしい。 だがある日、事故に遭い、彼はすべての記憶を失ってしまった。 それからどこをどう歩いて生きてきたのかはよく覚えていないが、日本を飛び出して世界に出て行き、そこで自分で演劇をやったり、または様々な舞台を観て回ったりということを繰り返していたらしい。 数年前、日本に帰ってきてからも似たような生活をしていたらしいが、体調が悪くなってこの病院に入院して癌が発覚してから、ここの病棟のベッドで眠りながらじっとしていると、突然、昔の若い頃のことを少しずつ思い出すようになった。 そしていつも一緒に演劇を観に行っていた女性と小劇場の前で待ち合わせをした約束を果たせないまま、今日まできてしまったことをずっと後悔している…。 だがその女性の名前も顔も思い出せず、相手を探し出すことも出来ないままでいる…との事だった。 私の事だった。 私はすぐに彼に、その女性は私であると告げようとしたが、しかし、ここまでこの人と話をしてきて、その女性が私だと気がつかないところを見ると、私がそう証言しても信用してもらえるかどうか不安だった。 これ以上この人が私の顔と名前を完全に忘れてしまっていることを知るのは辛かった。 だから私は名乗り出ることができなかった。 だが彼は言った。 「先の短い人生な気がするんですけど、生きている間に、もう一度また舞台が見たいなと思う今日この頃です」 と。 「それじゃあ一緒に舞台を見にいきましょうよ」 私はそう言った。 するとあの人は、"つまらないことに付き合ってもらって申し訳ない"と言いながら、私の申し出を承諾してくれた。
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