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「はぁ……」
目の前の異様に綺麗な格好をしたそいつは、一つ深いため息を吐いた。私は、ちらっとだけその顔を見て、再び自分のノートパソコンの画面へと視線を戻す。
今、私たちは、「勉強会」という名目で、ファミレスに集まっている。夏休みを妨害するかのように大量に課された期末レポートを討伐するためだ。「大学生の夏休みは最高に暇だ」と、高校の頃の担任は言っていたが、その“最高に暇“な夏休みを獲得する前にこんな苦行が待っているとは聞いてない。おまけに、私たちはお互いを「ナマケモノ」と呼び合うぐらい、課題に手を付けるのが遅い。だから、こんな風に「勉強会」を開いて監視し合わないと、作業が進まないのだ。
ちなみに、今日、「勉強会をしよう」と提案してきたのは、さっきからため息ばかりで何もしていない目の前のそいつである。言い出しっぺのくせに集合時間にも数十分遅れてきた。やっと姿を現したと思ったら心ここにあらずといった調子で、筆記用具すら取り出さない。一体、何なのだ。
もう一度、目の前のそいつは長いため息を吐く。リップを塗った唇がへの字になっている。私は文字を打つ手を止め、パソコンから顔をあげた。
「……どうしたの」
大方理由は想像がつくけど、一応聞いてあげる。私たちは“友達”だから。すると、友達は上手にふんわりと巻いた前髪を右手でいじりながら、上目遣いに私の目を見た。そもそも綺麗な二重で睫毛も長いのに、今日は何故か気合を入れてメイクをしているようで、一段と美人に見える。私はなんだか気怠そうなしょげているようなその表情に、不覚にも「かわいい」などと思ってしまった。思わず歯を食いしばりそうになる。
友達は、頬杖をついて何も言わない。私は、作業に戻ろうとした。そのとき。
「まさはるくんと会ってたの」
友達は、机の上の飲みほしたジュースのコップを見つめながら、ぽつりと言う。中に残っていた融けかけの氷がカラン、と音を立てた。
ああ、やっぱりそうか。
思った通りの発言だ。私は、「ふーん」とだけ、返事をした。
「まさはるくん」とは、友達が絶賛片想い中の相手である。同じ写真サークルの人らしく、友達曰く「優しくてかわいくてかっこいい」そうだ。知らんけど。
友達が、まだ何か言いたそうにじっとこちらを見ている。私は今、彼女がしてほしいことを知っている。「質問」だ。この女は、話したいことはあるくせにこちらから質問しないと喋らないのだ。こうなったこいつはめんどくさい。今度は私が「はぁ~」とため息を吐く番だった。
レポート、まだ半分も終わってないんだけどな……。私はノートパソコンを閉じて、仕方なく、彼女の恋バナに乗ってあげることにした。
「まさはるくんと会ってなにしたの?」
「写真撮ってた。夏の写真展に出品する用の」
「どんな写真?」
「海の写真」
「ふーん。楽しそうじゃん。海の風景だけ撮ってたの?」
私の何気ない質問に、友達は一瞬なぜか言い淀んだ。しかし、ふーっと一つ息を吐くと、再びもぞもぞと口を開く。
「海の風景だけじゃなくて……。海を背景に……、彼に被写体になってって、頼んだの」
そうか。じゃあ、今こんなに落ち込んでるということは、断られたのか。
「断られたの?」
答えを予想しながら質問した。ところが、彼女は首を横に振って、
「ううん、すぐにオッケーしてくれたよ」
「じゃあ、上手に撮れなかった?」
「いいや、すごく良いのが撮れた。これで夏の写真展はばっちり」
「変なこと言って気まずくさせた?」
「違う」
「……カメラ壊した?」
「なわけないじゃん」
じゃあ、なにがダメだったんだ。落ち込む理由がわからない。そして、たぶんそこを喋ってしまわない限り、こいつは今日ずっと課題に手を付けず、私の目を見て質問を待つだろう。
あー、ほんとに、めんどくさい。
「じゃあ、なんでそんなにため息ばっかり吐いてるの」
もう、ストレートに質問してみることにした。友達は、目を真ん丸に見開いて、こちらを見る。なによ、聞いてほしかったんじゃなかったの。
友達は、しばらく黙って、再びコップの中のもうほとんど水になった氷を見つめた。コップに付いた水滴が、さあーっと机の上まで流れ落ちた。
ほどなくして、彼女は、「んんん~!」と言いながら机に突っ伏した。テーブルの下で、両足をバタバタさせている。私はそんな友達を見て、もう一度ため息をついた。
数分後。もういい加減レポートの執筆に戻ろうと、閉じていたパソコンに手を伸ばした時、彼女はいきなりバッと顔をあげた。そして、またしおしおと視線を下げる。
「お礼ができなかった……」
やがて、少し唇を尖らせながら、彼女は小さな声で答えを発表した。
「写真を撮り終わって、何かお礼がしたいって言ったら、『いいよ、気にしないで』って。そのまま手を振って帰っちゃった……」
がやがやしたファミレスの店内は、彼女の小さな声をさらってしまいそうになる。私は黙って、彼女が全部言葉を吐いてしまうのを待った。
「今日、たくさん写真撮らせてもらったし、すごく暑かったから……。本当はお礼に、アイスクリームでもって……。それで、少しでも長く一緒に居れたらって、思ったのに……」
それっきり彼女はまた口を閉ざした。もう、言いたいことは喋ってしまったんだろうか。
彼女の視線の先のコップの氷は、もうすっかり溶けてしまっていた。
ずるいな。
私は単純に、そう思った。
被写体を頼んだのは、本当は夏の写真展のためだけじゃなかったんじゃないか? もちろん、それも大切なことなんだろうけど、写真を撮ってる間、彼女が一番に気にしてたのは、きっとその後の時間。
素直に言えばいいものを、そこまでしてアイス一個分の彼の時間をもらいたかったのか。
……ずるいな。
「ずるいし、すこぶる不器用だよ」
私は、とうとう、我慢ならずに腕を組みながらきっぱり言ってしまった。友達は、肩をくねくね揺らしながらやっと顔をあげる。
「一緒にアイスを食べに行きたかったら、最初からそう言えばよくない? てか、写真撮ってる間は二人で一緒に居たんだろー! まずはそこを喜べよ!」
直球で伝えると、友達は、「ごもっともです……。うう……すみません……」とますます肩をくねくね揺らす。なんで謝ってんのよ、まったく。
「しかもさあ、あんた、まさはるくんとの約束の直後に、私との勉強会入れたわけ? もし、そのままアイスを食べに行ってたら、私のことはどうするつもりだったのさ。そうじゃなくても充分遅れてきたのに。スケジュール調整しっかりしなよ」
友達は、下唇を噛みながら眉毛を下げてこっちを見た。
「なに、その顔」
なかなか面白い顔になっている。私は、笑いをこらえて、友達の弁明を待った。
「……だって」
だって、何だ。
私は、ぐっと前のめりになって、彼女の顔を見つめ続けた。すると友達は、顔を赤くして、ふいと視線を逸らすと、
「だって、私、最初から誘える勇気無かったもん。でも、期待は捨てられなかったから……。だから、まさはるくんと別れた後、独りになるのが嫌だった。ゆきちゃんに会って話して、聞いてほしかったの」
顔を赤らめながら打ち明けた友達の声は、なんだか少し寂しかった。
でも、私は何故だか笑ってしまった。
本当に、この子は不器用だ。
「一緒にアイスクリームを食べに行こう」、そんな簡単な言葉も言えない。それを自分でわかってたから、先回りして私との約束を立てるなんて。
そのうえ、さっきだって、話したいのに聞かれないと喋れない、いざ本当に言いたいことを聞かれると決心がつくまで黙る。
不器用で、めんどくさくて、でも、それが可笑しくて笑った。
「はあー、もっとさあ! 素直にいこう? 素直にしなきゃ、他の素直な子に取られちゃうでしょ」
私は、笑いながら、気持ちをかき消すような声でそう言った。心なしか、店内の視線を集めてしまった気がする。でも、目の前の友達も、なぜだか笑っていた。今日初めて見る笑顔だった。
「私も、ゆきちゃんみたいに、素直になる」
二人でひとしきり笑った後、友達はそう言った。
私みたいに、か。
「そうよ! どんどん私を見習いな!」
私は何事も無いように、ドンと胸を張ってみせる。もう一度二人で笑いあった。
ほんと、こんな不器用でめんどくさくて、でも、面白くてすごくかわいいのに。まさはるくんとやらは、早く気付いてあげた方が良い。
じゃなきゃ、私、嫉妬しちゃう。
「じゃあ、今から、アイス食べるか!」
私は、一等明るい顔をしてみせて、机の端にあったメニュー表を広げた。色とりどりのデザートのページが、ツンと目を刺激する。
「うん! 食べたら私もレポート書く」
「そもそもそのための『勉強会』でしょ」
にひっ、と目を細めて笑った友達の顔は、今は私にだけ向けられている。今日、彼女がこんなにかわいい服を着ているのも、頑張って前髪を整えて綺麗にメイクをしているのも、私のためじゃないけど。
だったら、彼女がアイスを食べる時間くらい、私がもらってもいいよね。
頭の中に浮かんで消えた、彼女に対するたった二文字は、伝えられることのないまま、今日も胸の奥底に沈んでいった。
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