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「ねぇ、何見てるの」
突然、幼い声が耳元で聞こえました。
本を見ていた男の子は、体が飛び上がらんばかりにびっくりしました。すぐに顔を上げた男の子の目前に、瞳をくりくりさせた女の子の顔がありました。男の子は口をぽかんと開けたまま、黙りこくってしまいました。
「ねぇ、何を見ているの?」
女の子が再び聞いてきました。
男の子は図書室の奥の壁に背をもたれ掛けて、ひざを曲げて床に座り込んでいました。女の子は両ひざと両手を床につけて、四つんばいになって男の子におおい被さるようにしていました。男の子は体を縮こまらせながら女の子を見つめました。
“誰だっけ、この子”男の子は声を掛けてきた女の子の顔から、今までの記憶をたどってみました。“僕はこの子を知らない。同じクラスの子だっていうことしか知らない”
男の子は手にしていた本を胸元に抱え込みました。男の子が小学二年生になって、初めて同い年の女の子から声を掛けられたのでした。
女の子は腰を引いて、視線を男の子の胸元へと移しました。
「ごとう……ひゃく」女の子は首を傾げました。「これは何の本なの」
男の子はゆっくりと本の表紙を女の子に見せました。表紙には木々がたくさん茂った大きな山の写真がありました。
「ごとうち、ぜっけい、ひゃくせん」女の子は漢字の上に書かれたひらがな、本のタイトルを読みました。「それ、おもしろい?」
男の子は女の子の問い掛けにうなずきました。
「そうなの、ちょっと見せて」
男の子は開いていた本をいったん閉じて、女の子に手渡そうとしました。
「一緒に見ようよ」
女の子はそういって、男の子の横に移って床に座り込みました。
今は国語の授業で各自好きな本を読む時間でした。同じクラスの子供たちが、小学校の図書室にある椅子や壁際の床に座っていました。
男の子は最初のページを開きました。女の子は男の子に体を寄せて、のぞき込むようにして本を眺めました。
「わぁー、きれいねぇ」
男の子がページをめくる度に、女の子は喜んでご当地絶景百選に挙げられた写真を見入っていました。
穏やかに吹くそよ風が、図書室の窓に掛けられたレースのカーテンを静かに揺らしていました。
「私、これ見たことある」
女の子がひとつの写真を指しました。男の子は驚いて女の子を見ました。女の子は満面の笑顔を浮かべながら、本を眺めていました。
女の子が示した写真は、山間の原生林にある幾百本もの桜が、満開に花を咲かせている田舎の風景でした。
「おじいちゃんの家に行った時、この場所に連れていってもらったの」
「里山におじいちゃんの家があるんだ」
男の子は写真の左下に書かれた地名と、その場所を示した地域図を見ながらいいました。
「うん」
女の子は男の子に目をやりました。男の子はわずかにほほを赤くしながら、次のページをめくっていきました。
「これも見たことある」
女の子がいいました。
その写真は、もやがかかった水平線に、真っ赤な太陽が半分出かけている風景で、大きな太陽の前を一隻の舟が横切っているものでした。
「真冬の中、朝日に向かって――海を見に行ったんだ」
男の子は写真のタイトルを読みました。女の子は上体を前後に動かしていました。
「寒そうだね。朝起きるのって大変じゃなかったの」
「ううん。隣町に行った買い物の帰りだったから、時間は夕方だった」
女の子は写真を懐かしそうに眺めていました。男の子は不思議がりました。
「だって、見に行ったのは東の海なんだよね?」
「西の海だよ。車で十五分くらいの所だったもの」
女の子は男の子の顔を見つめました。男の子は思わずうつむいてしまいました。
「今度、見に行こうよ」
「えっ!」
男の子は意外な誘いに、慌てて顔を上げました。
「だから今度、海を見に行きましょう」
「僕、自転車持ってないよ」
男の子は小さい声でいいました。
「すぐそこだから、歩いていけるよ」
女の子は自信たっぷりにいいました。
「……そうなんだ」
男の子は半信半疑でした。
「今度の休みの日にでも行ってみよう」
女の子の無邪気な笑顔に、男の子はただただ見とれるばかりでした。
「おはようございます」
次の休みの日、女の子が元気な声でいいました。
ここは八百屋さんの店の前で、店のシャッターがちょうど今開いたところでした。店頭には野菜や果物がかごに入ったり、箱の中に入っていたりしました。店の両側の壁には、特産物のポスターが貼られていました。
「あら、おはようございます。えーと、早いわねぇ」八百屋さんからおばさんが顔を出してきました。「今日はお母さんと一緒じゃないの、おひとり?」
「うん、これから遠出するから迎えに来たの」
女の子がいいました。よく見ると、女の子の頭には麦わら帽子が乗っかっており、背中にはちっちゃな赤いリュックサック、それでも女の子にはとっても大きなリュックサックを背負っていました。そして、紺のポロシャツにジーパン、運動靴を履いて、さもハイキングにでも行きそうな格好でした。
「道理で学校が休みなのに、今日は店の手伝いができないっていうものだから、何かあるのかなぁとは思っていたんだけど」
男の子のお母さんは腕組みをしながら、店の奥にある居間に目をやりました。居間の方では、男の子が出掛ける支度をしていました。
「十時に約束しているんだよ」
「今日は一緒に遊んでくれるんだ」
「うん」
女の子は大きくうなずきました。
「助かるわぁ。うちは私と主人の二人そろって店の仕事で忙しいから、あの子にかまってあげられなくてねぇ」
おばさんはほほに手を当てて、困っているような仕草をしました。
「ところで、どこで遊んでくれるのかな?」
おばさんは女の子に聞きました。
「西の海を見に行くんだよ」
女の子はうれしそうに答えました。
「車には気を付けて行ってきてね。それと知らない人に声を掛けられても、聞こえない振りをしてね」
おばさんは女の子の前でしゃがみ込みました。
「わかった」
「これ、途中でいいから食べてね」
おばさんがそばに並べてあった果物を手にしました。
「ありがとう」
「リュックサックの中に入れておくけど、いいかな」
「はい」
女の子がおばさんに背中を向けました。おばさんはリュックサックの中に果物を入れてあげました。
「リュックサックの中に、いっぱい入っているのねぇ」おばさんがリュックサックをとんとんと叩きました。「あの子と仲良くしてやってね」
そこへ男の子が姿を現しました。
「あっ、おはよう」
女の子が明るくいいました。
「おはよう」
男の子ははにかみました。
「今日は天気が良くなるから帽子を被った方がいいって、うちのママがいっていたの。だから、帽子を被ってきてね」
女の子が男の子にいいました。
男の子は店の通路で立ち止まったまま考え込んでいましたが、すぐに奥の居間へと消えていきました。再度姿を現した時には、野球帽を被っていました。
男の子はアニメキャラがプリントされたTシャツの上に、黄土色と茶色の太線が交互に入ったストライプ柄のシャツ、ズボンといった服装でした。
「準備は整った?」
女の子は男の子に聞きました。
「うん」
「それじゃあ、よろしくね」おばさんがいいました。「昼食はどうするの、お昼には帰ってくるの?」
「……」
男の子は黙って、女の子を見ました。
「お昼ご飯はママに作ってもらったから大丈夫。それに一日中出掛けてきます」
女の子はリュックサックをおばさんに見せてほほ笑みました。
「それは、ありがとう。楽しんでらっしゃい」
おばさんは男の子の背中をぽんと押しました。
「行ってきまーす」
女の子が男の子の手をつないで、歩道を歩き始めました。男の子は女の子の背中を見て、後についていきました。
「気を付けるんだよ」
おばさんは両手を腰に当てて、二人を見送りました。
女の子と男の子は駅前の商店街の歩道を、西に向かって歩いていきました。てくてくすたすたと、軽やかな足取りの音が聞こえました。
道路の両脇にある店が次々とシャッターを開けて、開店の準備をしていました。それぞれの店が出している、いろいろな香りがしていました。
「お花屋さん、おまんじゅう屋さん、コーヒー屋さん、クリーニング屋さん、靴屋さん」
女の子はひとつずつお店をいっていました。
反対側の歩道わきに上下白黒模様の車が一台止まっていました。その車の後部ドアを開けて、中から荷物を取り出している女性がいました。その女性は荷物を持つと向きを変えました。
「おはようございます」
女の子がその女性に気づいて、あいさつをしました。
「あっ、おはよう」その女性は洋服屋さんでした。「おしゃれな服を着て、これからお出掛け?」
「はい」
「可愛い服が新しく入ったから、またお母さんと見に来てちょうだいね」
「はーい」
女の子は大きな声でいい、手を振っては歩道を歩いていきました。
「あの店でこの服と帽子を買ったの」
女の子は男の子にこそっと話して、肩をすくめました。
商店街を通り過ぎて住宅街に入っていくと、電線に止まったすずめたちが二人を出迎えてくれました。
女の子が先に走っていき、T路地の所で立ち止まりました。男の子が女の子に追いつくと、女の子がT路地の奥を見ていいました。
「この先のアパートの向こう側が私の家。あの赤い屋根の家がそう」
男の子は立ち止まって、女の子が示した方を見ました。大通りを脇に入った路地の三軒先に二階建ての古いアパートがあり、その向こうに赤いかわら屋根の一軒家がありました。
「僕の家からすぐ近くなんだ」
「だからいつでも遊べるよ」女の子はごきげんそうにいいました。「さぁ、次へ行こう」
女の子は歩き始めました。
「山下さん家、竹村さん家、金本さん家」女の子は歩道脇に建てられた家々の表札を読み上げていきました。「西川さん家、安田さん家、うーん何って読むのかわからない」
女の子が首を傾げました。男の子が女の子が見ていた表札に目を向けました。
「菖蒲(アヤメ)」
男の子がいいました。
「あやめ?」
女の子がオウム返しに聞きました。
「僕の店に買い物に来てくれるお客さん、菖蒲(アヤメ)さん」
「ふーん」
女の子はこくりとうなずいてから、再び歩き出しました。
住宅街のはずれに大きな公園がありました。住宅街の人達がいこいの場として利用する所でした。
「公園の中を横切って行こう」
女の子は公園を囲む柵に沿って駆けて行き、公園の中に入っていきました。
公園には芝生が敷き詰められたサッカー場半面ほどの広場があり、その周りにはつつじが並んで植えられた散歩道がありました。公園の奥には子供の遊び場となる、ジャングルジム、ブランコ、シーソー、砂遊び場と水飲み場、休憩用のベンチがありました。今の時間、公園には誰の姿もありませんでした。
女の子は公園の中央にある広場へと足を踏み入れました。よく見ると、芝生の他に雑草があちこちに生えていました。
「オオバコ、ツメクサ、トキワハゼ」
女の子がきょろきょろと周囲に目をやって、雑草を見つけていました。
「ねぇ、クローバーがあるよ」女の子がしゃがみ込みました。「四つ葉のクローバーを見つけるといいことがあるんだって」
「そうなんだ」
女の子の後をついてきた男の子がいいました。
「こっちに来て、一緒に探そうよ」
女の子が振り返って手招きしました。
「でも、今日は海を見に行く約束だよ」
「ねぇ、ちょっとだけ。この広場を横切る間ゆっくり歩いていきましょう」女の子は男の子にお願いをしました。「そして、あの先のベンチで休もう」
「わかったよ」
男の子はしぶしぶ答えました。
「ありがとう」
女の子はワクワクしながら、下を見つめて歩いていきました。男の子が真っ直ぐに広場を歩いているのに対し、女の子は左右に行ったり来たりして、カニさん歩きで進んでいました。男の子がゆったりと歩いているので、女の子が遅れることはありませんでした。
女の子はクローバーが生えている場所を見つけると、瞳を凝らして四つ葉のクローバーを探していました。
「あれぇ、これかなぁ、でも違うなぁー」女の子が独りつぶやいていました。「三つ葉のクローバーばっかり。なかなか四つ葉のクローバーが見つけられないね」
「うん」
「幸せになるのは、大変なんだねぇ」
「うん」
いつの間にか、男の子も下を見ながら、ジグザグにゆっくりと歩いていました。大層な時間を掛けて、二人は芝生の広場を横断しました。
「あーあ、駄目だったね」
女の子はにこやかにいいました。男の子もさわやかな笑顔を見せました。結局四つ葉のクローバーはひとつも見つけられませんでした。
女の子は藤の棚の下に設けられた鉄製のベンチに座りました。
「ちょっと一休み」
男の子も女の子の隣、少し距離をおいた所に座りました。女の子は背負っていたリュックサックを、ひざの上に置いて中を開けました。
「はい、これっ」女の子が銀紙で包んだチョコレートを男の子に差し出しました。「四つ葉のクローバー探し、手伝ってくれてありがとう」
男の子は黙ってチョコレートを受け取りました。女の子が右足、左足を交互に前後動かして、チョコレートをほお張りました。
「何だか、遠足みたいだね。二人っきりだけど」
女の子が公園を見回しながらいいました。
「うん」
男の子も先程歩いてきた広場を眺めては、チョコレートを食べました。
公園には、数人の子供たちが遊具で遊んでいました。はしゃいだ声や笑い声がにぎやかに聞こえていました。
チョコレートを食べ終えると、二人は公園を後にして畑の脇を歩いていきました。開けた畑には、たくさんの野菜が区画ごとに植えられていました。
「ホウレンソウ、ダイコン、キャベツ」
女の子が畑の野菜を見ながらいいました。
「ニンジン、うーん、これ何ていう野菜の葉っぱ?」
女の子が畑の方を指して聞きました。
「ジャガイモ」
男の子がいいました。
「すごい、何でも知っているんだねぇ。ジャガイモね」
女の子は満足そうにいいました。
「リュックサックを持とうか?」
男の子が聞いてきました。
「ありがとう。でも平気、自分で持てるから」
女の子は楽しげに答えました。
西へと続く道は、やがて河川敷に沿って伸びていました。二人は道路脇の土手の上に登って、遊歩道を歩きました。
「タンポポ、サクラソウ、フクジュソウ」
女の子が遊歩道の道端に生えている野草の名前をいいました。
遊歩道では散歩、ジョギング、サイクリングをしている人がいました。アスファルトで舗装された道を、すれ違ったり追い越したり並行したりしていました。
犬を連れて散歩する人が前方からやって来ました。
「大きな犬」
女の子はそういうと、さっそうと駆け出していきました。犬の正面で立ち止まっては、犬の頭をなで始めました。
「この犬、さわってもいい?」
女の子は犬を連れた人にいいました。
「いいよ」
犬はお座りをしました。女の子は犬の頭や背中を優しくなでました。
「可愛いなぁ、おとなしい犬ですね。ふさふさしていて、気持ちいい」
「ありがとう」
犬は遠くの方を眺めていました。
「この犬の背中に、私乗れるかなぁ。そうすれば散歩が楽なのに」
女の子がつぶやきました。
「それは無理なんじゃない」
犬の飼い主が苦笑いしました。
男の子が歩み寄ってきました。女の子が男の子に聞きました。
「さわってみる?」
男の子が首を横に振りました。
「ありがとうございます」
女の子は立ち上がって、犬を連れた人にいいました。
「こちらこそ、ありがとう」
犬はこの時を待っていたかのように、すくっと立ち上がって散歩を再開しました。
雲がまばらに浮かんでいる青空の下で、女の子は気持ち良く歩いていました。女の子は川岸へと降りていきました。
「わぁ、お魚が泳いでいる。フナかな、コイかな、ドジョウかな」女の子は奇声を上げました。「それに、カルガモの親子が浮いている」
親カルガモを先頭に、子カルガモが三羽後ろに並んで泳いでいました。
女の子は再度土手の傾斜を登り、周囲の景色を眺めていました。男の子の歩く速度が遅いので、女の子は度々立ち止まっては、男の子が来るのを待っていました。
「疲れちゃったの?」
女の子が心配になって声を掛けました。男の子はただうつむいていました。
女の子は西の方を見ていいました。
「あそこに見える橋の下で、昼食にしようよ。それまではりきって行こう」
男の子は休めると知ると、がんばってみようと思いました。
女の子は男の子の手を持って前を歩きました。男の子は握られた手を見つめて、リュックサックの上にある女の子の頭を眺めました。男の子の瞳に、麦わら帽子の影からはみ出した後れ毛が、やけに眩しく映りました。
「あと少しだね」
男の子がぽつりといいました。
昼食は川に架かる橋の先にあった石のベンチで取りました。ベンチが置かれた場所は、ちょうど橋のおかげで日陰になっていました。
女の子はリュックサックの中から、いろいろなものを取り出しました。
「おにぎりとおかず、それに水筒」女の子は声を出していいました。「おにぎりの中身は、梅とたらことこんぶと――」
女の子と男の子が座った間には、いっぱいの食べ物が並べられました。女の子は水筒のふたを開けて、そのふたにお水を注いでベンチの上に置きました。
「はい、これっ」
女の子は男の子に紙おしぼりを手渡しました。
「ありがとう」
男の子ははにかみながらいいました。女の子がおにぎりをひとつ取り上げていいました。
「これ全部、ママが作ってくれたの。ちょっとおにぎりの形が崩れちゃっているけど、リュックサックに入れておいたんだから仕方ないよね。でも、味は変わらないから問題ないよ。どれでもいいから取って食べて」
男の子は紙包みの隅にあったおにぎりを手に取りました。
「それでは、いただきます」
女の子がいいました。男の子も続けていいました。
女の子は川の向こう側にある町工場や家々を眺めては、おにぎりをほお張りました。女の子がおにぎり二口目を食べた時には、男の子は二つ目を食べていました。
「いっぱい食べてね」女の子はいいました。「おかずも混ざり合っているけど、口にしてみて」
男の子はつまようじでタッパーに入ったおかずを突き刺して、いわれるがままに口へと運んでいきました。
川に架かる鉄橋の上を、二両の電車が走って行きました。
「あのね、お家の人とどこかに行くことってあるの?」
女の子が聞いてきました。男の子はおにぎりを持ったまま黙りこくっていました。そして、いいました。
「うちは八百屋をやっているから、家族そろってどこかに出掛けることなんて全くないよ。正月も春休みも夏休みも、どこへも行かない。ずーっと家にいて、幼い頃からお店の手伝いをしていたし。だから、あの時風景写真を見ていたんだ」
「そうなんだ」
女の子は目前に広がる景色を眺めていました。男の子は水筒のふたを取り、お水を飲みました。
「だけど、野菜市場には一緒にいくよ。それも朝早くだけど」
「遠くにあるの? その野菜市場は」
「車で二十分くらい行った所」
「ふーん、その他には」
女の子が男の子を見つめながら聞きました。
「どこかへ行くとしたら、それくらいかなぁ」
男の子が女の子の視線に目をそらしました。
「私のうちはねぇ、パパがいろいろな所に連れて行ってくれるんだ。車に乗ったり、電車に乗ったり、お船に乗ったりして。でも私は自分の足で歩きながら、いろいろなものを見て、さわって回るのが好きっ! だって風を感じたり、その場所のにおいをかいだり、空や雲や山や川を眺めたり、置物にさわったり、人に会ったり、自由気ままに味わえるんだもの。自分の知らなかったことがたくさんあるんだなぁって思ったりもして、面白いよ」女の子はにこりとほほ笑みました。「だから、私はたまに一人で遠出を楽しんでいるの」
「一人でどこかへ出掛けるのって、あぶなくない? それに大変そうだし、怖くない?」
男の子は思ったことを聞いてきました。
「もう慣れちゃったから、全然平気。それにこれがあるから大丈夫。出掛ける時は、いつも持ち歩いているの」
女の子はリュックサックに付いているサイドポケットのチャックを開けて、中から携帯電話を取り出しました。
「何かあったら、これでお家に電話するから」女の子はいいました。「それに少しずつ遠出する所を広げている最中なの。自分でどこかへ行きたいと思えば、どこへでも行けるの。だって、今こうして私たち、海を見に出掛けているんだもの」
「そうだね」男の子は答えました。「これ、おいしいね」
「うん」
女の子は空になった水筒のふたに水を入れ、それを口にしました。男の子は黙ってその光景を眺めていました。
「飲む?」
女の子が聞いてきました。男の子はうなずきました。
女の子がおにぎりを食べ終わると、ベンチからすたっと降りました。
「もうちょっと、休んでいてね」
女の子はそういうと、川辺に向かいました。川岸付近に生えている笹の葉を取り、それでお舟を作りました。
「一緒に海まで行こうね」
女の子は笹舟を川に浮かべました。笹舟は透き通った川の上をゆっくりと流れていきました。ひんやりとした風が、女の子のほほにそっと触れました。
女の子は笹舟の行方を眺めていましたが、振り返っていいました。
「私たちも出発しましょう」
女の子は男の子の元へと駆けていきました。女の子は紙包みやタッパーをリュックサックにしまうと、西に向かって歩いていきました。
途中で川が南にそれていました。
「川に沿って歩いていけば、いつかは海にたどり着けるけど、それでは遠回りしてしまうから、このまま西に向かって行きましょう」女の子がいいました。「だから笹舟さん、ここでお別れね。またどこかの海で会いましょう」
二人は別の道を進むことにしました。
土手を上り、川に架かった橋の手前の信号機で足を止めました。その横を信号待ちしている車が並んで止まっていました。
道路上にあった標識を見ると、少し北へ進んで左に曲がると『海岸行き』となっていました。
「この道でいいね」
女の子はほっと息をつきました。
標識の案内に従い、二人は道なりに左右が田んぼだらけの所を歩いていきました。苗植えが終わった田んぼには水が張っていました。
女の子は道路脇に設けられたあぜ道を歩きました。
「田んぼが大きな水溜りに見える。広い沼や海のようだね」女の子は三百六十度風景を見回しました。「それにアメンボウがいるよ。メダカもカエルも」
女の子が進む先に、草むらでおおわれている箇所がありました。たぶん、農機具を田んぼから出し入れする場所のため、一段田んぼから高くしてあるのです。
女の子が草むらのそばに近づくと、草むらの中で何やら“カサカサ”と音がしました。女の子はびっくりして思わず足を止めました。
「キャア」
女の子は悲鳴を上げてしまいました。にょっこりと顔を出したヘビが、するすると草むらから出てきて、田んぼの水の上をくねくねと動いていきました。
「びっくりしたー」
女の子がぴょんと飛んで、道路に上がりました。男の子を見ては、苦笑いしました。
道路が左右に曲がっている所へたどり着きました。当然、左に曲がれば南へ、右に曲がれば北へと向かいます。
「どっちへ進むの」
男の子がT路地の前でいいました。
女の子は左右を交互に見てから、腕組みをして考え込んでしまいました。
「海に向かう途中で、この道は通らなかったの?」
男の子が聞きました。
「うん、覚えていない」
女の子が首を傾げました。
「左と右、どっちを選ぶの」
「あっち」
女の子は指差して進む方向を示しました。それは左でも右でもない真っ正面でした。二人の正面に広がる休耕地には、レンゲソウが咲いていました。
「西に向かって真っ直ぐに進んでいくの」女の子は声を高らかにしていいました。「そうすれば、最短で海に出られるよ」
「それはそうだけど」
女の子はすぐさま休耕地に足を踏み入れました。ひざ下くらい伸びたレンゲソウの海に入ると、女の子ははしゃいで歩きました。
「ちょうちょが飛んでるよ」
レンゲソウの花の周りを、ちょうちょが優雅に飛んでいました。虫の鳴き声も聞こえていました。
男の子は女の子が作った道を、後に続いていきました。
「注意して歩いていかないと、またヘビに出くわすよ」
男の子がぼそっといいました。女の子は急に立ち止まって、背中越しにいいました。
「それでは、前を歩いてよ。私ヘビが苦手なの。ニョロニョロしていて気持ち悪いし」
男の子は女の子の顔を見つめながらいいました。
「僕もヘビは嫌いだよ」
「男の子でしょ。そのくらい、へっちゃらでしょ」
女の子はふくれっ面をしました。
結局、男の子が先頭を歩くことになりました。男の子は慎重に足を進めていきました。女の子も男の子の背中の上着をつかんで、寄り添っていきました。
「黙ってないで、何か話すなり歌ってよ」
背中から女の子の声がしました。
男の子は困り果てた表情をしましたが、女の子が知る由もありませんでした。仕方なく、最近小学校の音楽の授業で歌った曲を歌いました。その音痴な声は、休耕地に隠れているヘビが身をひそめるだけの効果はありました。
やがて、レンゲソウの休耕地は背が高い菜の花畑へと変わりました。今度はてんとう虫が出迎えてくれました。女の子は菜の花を切り取っては、ポロシャツの胸ポケットに挿しました。
「ねぇ、こっちを見て。可愛い?」
女の子が男の子に聞きました。男の子は後ろを向いて、指差した女の子の胸元を見てうなずきました。
「うん」
女の子は照れたように口元を緩ませました。
女の子は男の子の後をしばらくの間ついていましたが、突然弱々しくいいました。
「すぐに追いつくから、先を歩いていて」
女の子は立ち止まりました。不思議に思って、男の子も立ち止まっては振り返りました。
「ねぇお願いだから、西に向かってゆっくり歩いていって」
女の子は立っている場所で足を交互に上げて、足踏みをしていました。
「急にどうしたの?」
男の子が聞きました。
女の子はリュックサックの肩ひもを両手で持ち、うつむいてしまいました。黙ったまま不意に顔を背けて、脇の方へと歩いていきました。
「どこへ行くんだよ。ちょっと待ってよぉ」
男の子は女の子を追いかけました。女の子は菜の花をかき分けかき分け、どんどんと歩いていきました。
「お願いだから、ついて来ないでぇ」
「西の方角とは違う方に向かっているよ。ねぇ、どうしちゃったのさぁ。それに何か怒っている?」
女の子は急に足を止めました。男の子は女の子に追いつくと、女の子の背中を見つめていました。
女の子はほほを赤く染めて、小声でいいました。
「おっ……おしっこ。だから、先に行っていて」
男の子は息を飲み込みました。そして、女の子と背中合わせになっていいました。
「僕もあっちの方でおしっこしてくる。もう、がまんできないでいたんだ」
男の子は走り出しました。女の子は肩越しに後ろを見て、男の子が遠ざかるのを知ると、菜の花畑でしゃがみ込みました。
用を足した二人は再び合流して、西に向けて歩き出しました。
休耕地の菜の花畑を抜けると、木の柵に囲まれた大草原へと出ました。
「何だろうねぇ」
女の子が好奇心で周囲を見ました。男の子は遠くを指差しました。女の子がその方角に目を凝らして叫びました。
「うわぁ、ウシさんだぁ!」
草原の中央の木陰の下で、体を横たえて休んでいる白黒まだら模様の牛たちがいました。
「ここは牧場かな」
女の子は瞳を輝かせました。
「うん、きっとそうだよ」
男の子は弾んだ声を上げました。
「迂回するのも大変だから、このまま中に入っちゃおう」
女の子は柵の間をすり抜けて、牧場の敷地内に入っていきました。男の子も後に続きました。木陰を目指して、草原を歩いて行きました。牛たちの姿がしだいに大きく見えてきました。
「驚かさないように、そっと脇を通って行こう」
女の子はひそひそ声でいいました。
「昨日テレビで闘牛っていうのをやっていたけど、牛に赤色のものを見せるといけないんだって」
「どうして?」
「何でも、牛が興奮して向かってくるらしいよ」
男の子も声をひそめました。
「えー」
女の子は大声を上げてしまいました。女の子は背負っていたリュックサックを慌てて下ろしました。女の子のリュックサックは赤色をしていたのです。
「どうしよう……」
男の子は少し悩んでから、おもむろに上着を脱ぎ始めました。Tシャツ姿となった男の子は、手を差し出しました。
「このシャツでリュックサックを隠すから、こっちに渡して」
「うん」
女の子はリュックサックを男の子に渡しました。男の子はすぐさまシャツをリュックサックに巻きつけました。はみ出した部分はお腹に当てて、赤色が見えないようにしました。
「これで、大丈夫」
男の子は自分の行動に満足すると、女の子にほほ笑み掛けました。女の子もほほ笑み返しました。
二人は遠巻きに木陰の脇を歩いていきました。男の子はリュックサックをくるんだシャツを、大事そうに抱え込んでいました。女の子は牛たちが起きてこないように祈っていました。無事二人は牛たちの群れから遠のくことができました。
「ありがとう」
女の子が男の子にいって、両手を差し出しました。男の子は持っていたリュックサックを渡し、上着を羽織りました。女の子はリュックサックを背負って歩き始めました。
草原の丘を登り切ると、前方に大きな小屋がいくつもありました。
「牛さんたちのお家だよね」
ブタの姿も小屋の中から見えてきました。
「おもしろそうな場所ね」
女の子がにこやかにいいました。
小屋の近くにくると、草原から砂利道が伸びていました。小屋の中は、両側に柵で区切られた牛の寝床がありました。小屋の横には、牛の寝床に敷くためのわらが、子供たちの背丈ほど山積みされていました。
「わーい」
女の子が駆けていき、リュックサックをわらの山の隅に置きました。大きく息を吸い込んでから、わらの山の中腹にダイビングしました。沈んだ女の子の上に、わらがおおいました。
「気持ちいい」
女の子が大笑いしました。被っていた麦わら帽子がそばに落ちました。
女の子は起き上がって、わらを両手ですくっては、空に放り投げました。わらが宙を舞いました。女の子がジャンプして、わらの頂上に飛び込みました。
男の子も走り込んで、わらの山へと突進しました。
二人はわらの山の中で遊びまくりました。わらの中に潜ったり、互いに掛け合ったりしました。小さなわらが二人の頭や服にまとわりつきました。
わらの上で大の字で仰向けになり、空を見上げました。
「あーあ、楽しかった」
女の子がいいました。いつの間にか、女の子が胸ポケットに差していた菜の花がなくなっていました。
「ちょっと疲れたから、そこの小屋の横で一休みしよう」
女の子は満足げにわらの山から降りて、牛小屋の入口脇の日陰に腰を下ろしました。男の子もその隣に座り込みました。
女の子は早速リュックサックから水筒を取り出し、ふたに水を注ぎました。
「先に飲んでいて」
女の子は男の子に水筒のふたを手渡しました。のどが渇いていた男の子はふたを持つと、一気に水を飲みました。女の子はそれを見届けると、リュックサックから紙袋を取り出しました。紙袋の中に手を入れて、クッキーを取り出しました。
「はい、これっ!」
女の子は男の子にクッキーを渡しました。男の子はクッキーを受け取り、一口食べました。
「お水、まだ飲む?」
「もう、いい」
男の子は女の子に水筒のふたを返しました。女の子は水を注いで、自分も水を飲みました。二人はぼんやりと牛たちを眺めていました。
つばめが小屋の出入口の周囲を飛び回っていました。
「それじゃあ、行きましょうか」
女の子はリュックサックに水筒をしまい込むと、すくっと立ち上がりました。麦わら帽子を被って、小屋の陰から表へと出ました。
小屋の前を横切りながら、女の子が興味津々で小屋の中をのぞき込んでいると、牛の寝床のひとつから女の人が出てきました。女の子はびっくりして、足を止めてしまいました。
「あら、可愛いお客さん」女の人は布が山盛りになったかごを持っていました。「こんにちは」
「こんにちは」
女の子は女の人に向かっていいました。
「こんな所でどうしたの、迷子になったの?」
女の人は道端まで出て行き、女の子に声を掛けました。女の子は首を横に振りました。
「お父さんかお母さんは一緒じゃないの?」
女の子はゆっくりとうなずきました。男の子は女の子の後ろに下がって、立っていました。
「そう」
女の人は辺りを見て、二人の子供の他に誰もいないことを確かめました。
「それで、二人は牛さんを見に来たの、それともどこかに行こうとしているの?」
女の人は持っていたかごを地面に置いて、かがみ込んで女の子に聞きました。
「西の方へ――海を見に」
女の子が口を開きました。
「そうかぁ、海ね。いいわねぇ」女の人はほほ笑み掛けました。「近くの海までまだ大分あるけど、がんばってね」
「はい」
女の子は元気な声でいいました。
女の人がさっと手を伸ばしてきました。思わず身構えた女の子の横顔当たりに手をやりました。
「これっ、肩についていたから」
手にしたわらを女の子に見せて、にこっとしました。女の人はわらを取ってやったのでした。
女の子は恥ずかしそうにしていました。
「この道をまっすぐ行ってごらん。そうすれば海にたどり着けるから」
女の人は砂利道の先を示していいました。
「ありがとうございます」
「バイバイ」
女の人は手を振りました。
「バイバイ」
女の子も手を振りました。女の子と男の子は静かに歩いていきました。女の子が背負ったリュックサックが左右に揺れていました。
“大きなリュックサックはカメの甲羅みたい。まるで、陸に上がった可愛いカメさんが、二本足で歩いているよう”
女の人の口元に笑みがこぼれました。
「時間があったら、またここに来てね。牛さんやブタさんが見れるし、新鮮な牛乳やチーズを買うことができるから」
女の人は二人の子供の背中に向かって叫びました。女の子は振り返ってお辞儀をしました。
草原の中央に一本の砂利道が続いていました。その砂利道が途切れると、舗装された道路へと続きました。二人は牧場を出たのでした。
左右には田んぼや畑が広がり、前方には高速道路と思われる高台が南北に伸びていました。二人はてくてくと歩いていきました。
「ペンペングサ、アザミ、スミレ」女の子は野草の名前をいいました。「これって、ヘビイチゴ」
高速道路を行き来する車が見えてきました。そのまま真っ直ぐ行くと、車一台がやっと通れる道幅のトンネルを見つけました。
トンネルの入口で立ち止まり、二人は薄暗い中を眺めました。トンネルの低い天井から、水滴がしたたり落ちていました。
「何かお化けが出てきそう。ここを通らないと駄目かなぁ」
女の子が恐る恐るいいました。
「ここを通らないと、遠回りになってしまうよ」
男の子がいいました。
「ねぇ、怖くない?」
女の子が聞いてきました。
「怖いけど仕方ないよ」男の子が一歩前に進みました。「ほらっ」
男の子は女の子に手を差し出しました。女の子は男の子の手を強く握り締めました。
二人は照明のないトンネルへと入って行きました。二人の足音がこだましていました。
トンネルの壁は薄汚れていて、気味が悪い模様となっていました。肌寒い空気が周囲に漂っていました。
女の子は勇気を振り絞って歩いていきました。トンネルの出口に景色が見え始めてきました。
“ポトッ”
女の子が被っていた麦わら帽子の上に、水滴が落ちてきました。
「うわぁ」
女の子は大声を上げて駆け出しました。
「ちょっと、待ってよう。置いていかないで」
男の子も急いで駆け出しました。二人ともトンネルの出口で、互いに安堵の苦笑いをしました。
トンネルを抜けたその先も、見渡す限り地平線には田畑以外何もありませんでした。
女の子は歩きながら、ハミングしました。曲にはならない音を、リズミカルに口ずさんでいました。
「ねぇ、あとどれくらいなの?」
後ろをついてきていた男の子が聞いてきました。
「あっ、飛行機」
女の子が空を見ました。頭上高く、飛行機が一機飛んでいました。その後には飛行機雲が一筋の白い線を描いていました。
「本当だ」
男の子が一緒になって、空を見上げました。女の子はため息をひとつ付くと、麦わら帽子をいったん手に取って、被り直しました。
男の子がいいました。
「海まで、あとどのくらい歩けばいいの?」
女の子はくるっと振り返って、男の子の面前で後ろ向きに歩きました。
「ごめんなさい。あとどれくらいか、私にもわからないの」女の子は困ったようにいいました。「だけど、先程のおねえさんがいっていたように、西の方へと歩いていけばいつかはきっと海にたどり着けるわよ」
「そんなぁ」男の子は呆れてしまいました。「僕、疲れちゃったよ」
それでも二人は、重い足取りで歩き続けました。二人が歩く道も、自動車の往来がなくなりました。
「やだぁー」
女の子が悲鳴を上げました。男の子も同様に声を上げました。突然の雨が二人を襲ったのでした。
「あそこまで走れる?」
女の子が前方を指差しました。その先には、ほったて小屋みたいな小さな建物が、道路脇に建っていたのでした。
男の子は返事する間もなく走り出しました。女の子も後を追うように走りました。被っていた麦わら帽子が飛びそうだったので、女の子は両手で頭を押さえながらいきました。
雨に濡れた道路を、脇目も振らずに駆けていきました。たたみ二畳ほどの小屋の中に入ると、そこには木のベンチが置いてありました。二人は荒い息を整えるために、ベンチにどっと座り込みました。そして疲れたように、ベンチに背をもたれ掛けて、足を投げ出しました。
「すごい雨ねぇ」女の子がいいました。「私、この駆けっこが今までで一番早く走れたと思うの」
「僕もそう思う」
二人して笑ってしまいました。
「北の方は晴れているのに、ここは雨なのね」
「にわか雨、通り雨だよ。きっと」
「じゃあ、すぐ晴れるわね。それまでここで休みましょう」女の子はポケットからハンカチを取り出して、男の子に差し出しました。「これで、濡れた所を拭いて」
男の子は素直にハンカチを受け取り、自分の腕を拭きました。
「ありがとう」
男の子はうつむきながら、ハンカチを返しました。
二人は雨が降る中、ベンチに座っていました。女の子は両足を交互に前に出し、ハミングを口ずさんでいました。男の子は運動靴を脱いで、かかとをベンチの先につけて、ひざを抱え込んで座っていました。男の子は顔を隠すように野球帽を深く被って、瞳を閉じていました。
やがて、雨音が静かになってきました。
「雨、止みそうだよ」
女の子が前かがみになって、空を見上げながらいいました。女の子は勢いをつけて、ベンチから立ち上がりました。ベンチに置いたリュックサックを背負いました。
女の子は男の子に目を向けました。男の子はまだ眠っているようでした。
「雨上がるよ。もうすぐ行けるよ」
女の子が男の子のそばに立っていいました。
男の子が目をつぶったまま、ぽつりといいました。
「もう、歩きたくない」
「もうちょっと、休む?」
女の子が首を傾げました。男の子は顔をそむけて、薄っすらと目を開けました。
「海なんて見なくてもいい。お家に帰りたい」
「でも、ここまで来たんだから――ねぇ、あの本に写っていた海を見てみようよ」
「あと、どれくらい歩けばいいのか分からないのに。結局、歩いていくこと自体、僕たちには無理なんだよ。だから、もう海を見に行くのは止めて帰ろう」
「じゃあ、また今度にする?」
女の子が気持ちを探るように、か細く聞きました。
「今度もない……行かない」
男の子はかたくなにいいました。
「家に帰るにしても、まだ歩ける?」
「ううん、もう駄目。携帯電話でお家の人に迎えに来てもらってよ」
女の子はがっくりとうなだれてしまいました。もうどうしたらいいのか、分からなくなりました。女の子もまた疲れていたのでした。
「海を見せてあげたかったから、ずーっと楽しみにしていたのに。だから、私だってがんばってここまで来たんだから」
女の子は抑えていた感情を口にしました。女の子の肩が小刻みに震えていました。
「二人だったらどこへでも行けると思ったのに。二人だったら何でもできると思ったのに。二人だったら大丈夫だと思ったのに。二人だったら、二人だったら……」
女の子の声は泣き声に変わりました。男の子は黙って聞いていました。
“僕は同い年の女の子を、初めて泣かせてしまった”
男の子には女の子を笑顔にするだけの力が、今はありませんでした。
二人の耳には、遠くの方で鳴くカエルの声が聞こえていました。時間が静かに流れていきました。にわか雨はもう既に止んでいました。
夕暮れ時、二人がいる小屋の前に一台の大型車が止まりました。乗降ドアが音を立てて開きました。二人が雨宿りしていた小屋は、バスの停留所だったのです。
バスの運転手がドア越しに子供たちをちらっと見ました。二人はベンチの両端にそれぞれが離れて座っていました。二人とも停車したバスに戸惑って、口を閉ざしたままでした。
「バスに乗るの、乗らないの?」
帽子を浅く被った運転手が、無愛想に聞いてきました。放心状態だった女の子が我に返り、ベンチから立ち上がっては首を振りました。
「どこまで行くの?」
「西の海、海岸の行き止まりまで」
女の子がつぶやくようにしていいました。
「お父さんかお母さんは一緒にいるの?」
女の子は小さく首を横に振りました。
バスの運転手は腕時計に目をやりました。
「海岸までどうやって行くの?」
「歩いて」
女の子は答えました。
「二人して歩いて行こうとしているのかい、それも隣町からずーっと」運転手は深くため息をつきました。「それでは、日が暮れてしまう」
二人は黙りこくってしまいました。沈黙が流れました。
「あんたは桜ヶ丘アパートの隣ん家の娘さんだろ。いつもお母さんと一緒に買い物にいく子だろ」運転手がいいました。「俺はその桜ヶ丘アパートに住んでいる者なんだけど、よくお前さんとお母さんを見掛けていたものだから」
女の子は運転手の顔を眺めましたが、誰だかわかりませんでした。
「それに、お前さんが小学校から家まで歩いている所も、何回も見掛けているんだよ。このバスに乗っている最中だけどね」
「……」
女の子は体を縮こませて緊張していました。運転手は苦笑いしていいました。
「まあ、俺のことは見たことないし、知らないだろうなぁ」
「うん」
女の子はこくりとするだけでした。
「まあ、このことはどうでもいいか」運転手はあっさりといいました。「それで、海までこのバスに乗っていく?」
「私たち、お金持っていないから……」
女の子が尻すぼみにいいました。
「いいよ。このバスにお客さんは誰も乗っていないんだ。おじさん独りではさびしいから、お前さん達二人乗ってくれれば、うれしいっていうもんよ」
女の子と男の子は互いに顔を見合わせました。女の子はゆっくりと小屋を出ました。男の子も慌てて運動靴をはいて、女の子の後ろにつきました。バスの横に立った二人は、いまだ迷っていました。
「海岸行きのバスがまもなく発車します。お乗りになってお待ちください」
バスの運転手が二人に温かくいいました。
女の子が一歩足を踏み出しました。男の子が女の子の手を取りました。女の子は振り返って、男の子の顔を見ました。
「駄目だよ(知らない人についていっては)」
そういって、男の子は女の子の前面に立ち、運転手をにらみつけました。
「何かあったら、お家に電話するから」
女の子が男の子の耳元でささやきました。男の子はわずかにうなずきました。二人は恐る恐るバスに乗り込みました。
「好きな所に座っていいよ。あんたらの貸切だからさぁ」
運転手がすれ違った二人にいいました。二人がバスの通路に立って中を見ると、運転手がいう通り車内には誰もいませんでした。
バスの乗降ドアが閉まりました。
「海岸行きのバスが発車します。お近くの席にお座りください」
運転手が車内アナウンスをしました。二人はバス中央にもある乗降ドア付近の、二人掛け席に座り込みました。
バスが発車しました。
「助かったね」女の子はほっとして、男の子にいいました。「あれを見て」
女の子が南東の空を指しました。男の子がそちらの方に目を向けると、田畑が広がる景色の中、大空の下に半円の虹が掛かっていました。まっ平らな地平線の端から七色の虹が真上に上って、ほぼ半円を描いて反対側の端に下りていました。
太陽の光を浴びて、見事な虹の橋が澄んだ空に架かっていました。
「きれいねぇ」
女の子がつぶやきました。男の子もそう思いました。
二人を乗せたバスは、三つ目の停留所を通り過ぎていきました。バスが小高い丘を登り始めました。今まで進行方向に見えていた太陽が、地平線に沈んでいきました。
「あっ、太陽が隠れてしまうよ」女の子が声を荒げていいました。「早く追いつかなくっちゃ」
二人は身を乗り出して、前の座席の背もたれに手をついて、前方を見つめました。
「運転手さん、もっと早く走って。夕日が沈んじゃう」
女の子はつい叫んでいました。
太陽は視界から消え去り、暗がりが周囲を包みました。バスはエンジン音を響かせながら、丘を登り続けていきました。二人は座席に力なく座り込んで、沈んだ気持ちになりました。
バスは小高い丘を登り切りました。その先の視界が一気に開けてきました。そこには太陽がまだ昇っていました。それに……
「海が見えてきたね」
女の子がいいました。男の子は食い入るように海を見つめていました。
バスは海に向かって真っ直ぐに下って行き、道路の行き止まりまで行くと、左へと曲がりました。バスに乗った二人は反対側の座席に座り直して、窓に顔を押し当てて道路脇の海岸を見つめていました。
「終点、海岸通り前です。ここで、二十分停車します」
運転手のアナウンスが入り、バスは道路脇に設けられた駐車場に入っていきました。バスを所定の停車位置に止めた運転手は、乗降ドアを開けました。
「二十分後にはまた来た道を帰るから、それまでに戻ってくるんだよ」
下車しようと通路を歩いて来る二人に、運転手はいいました。女の子はリュックサックから何やら取り出しました。
「これ、あげる」
運転手に差し出されたものは、男の子のお母さんから今朝もらったリンゴでした。
「おっ、ありがとう」
運転手は笑って、リンゴを受け取りました。
バスを降りた二人は道路を横切って、向かいの歩道にたどり着きました。
「うわぁー、海だ、海だ、うみだぁー。私たち、海を見に来ちゃたんだよー」
女の子は大声を上げては、ぴょんぴょんとはねて喜びました。女の子の背中でリュックサックが何度も揺れました。
「うん」
「やっと、着いた」
女の子は男の子の両手を握って、上下に振っては興奮していました。一息ついてから、女の子がいいました。
「下に降りていこう」
二人は浜辺へと続くコンクリートブロックの階段を降りていきました。
浜辺から見た風景は、百八十度見渡す限りの大きな海がありました。彼方の水平線の真上には、真っ赤に染まった太陽がありました。真っ平らな水平線に、まん丸な夕日が吸い寄せられるようにゆっくりと沈んでいきました。燃えさかる炎のように、夕日の形が揺らいでいました。
「すごいねぇ」
女の子が感動した声を上げました。男の子もこの風景に見とれていました。二人は波が押し寄せる砂浜の近くに並んで座り込み、夕日を見守っていました。
うみねこが潮風を受けて、大空を舞っていました。
男の子は女の子の肩が触れ合う度にどきどきしました。それ程、女の子は寄り添うように体を預けていました。
男の子ははずかしそうにしていいました。それは、男の子を悩ませていたことでした。
「どうして、僕を誘ったの」
女の子は首を傾げました。
「何で学校の図書室で声を掛けてきたの」
男の子が女の子の横顔を見つめながら聞きました。女の子は傾げた頭を反対側に向けました。
「どうして、僕のことを知っていたの?」
女の子は質問の意味がわかったかのようにうなずいていいました。
「私が初めてお使いに行ったお店が、八百屋さんだったの。いつもはママと一緒に行っていた所だったので、気にしていなかったんだけど――一人でお使いに行った時、貴方がお店の手伝いをしているのを見たの」
男の子は黙っていました。女の子は海を眺めていました。
「それで、素敵だなぁと思ったの。私なんて、お家の手伝いといっても、ママのそばにいるだけなんだけど、貴方はお野菜や果物をかごに入れたり、並べていたりしていたんだもの」
「全然、気づかなかったけど」
男の子はつぶやきました。
「だから、私は貴方を知っているの。だから、私は貴方に声を掛けたの。だから、私は貴方を誘ったの」
女の子は上体を前後に揺らしながらいいました。
「そうなんだ」
男の子はいいました。
「そう」
女の子が答えました。
遠くでクラクションが鳴りました。あっという間に、バスの発車時刻になっていました。
「帰ろう」
二人は急いで立ち上がり、歩道に上がる階段に向かって走りました。
階段を登りきって歩道まで出た男の子は、ふと立ち止まって海の方に目をやり、まぶたに焼きつける程夕日を凝視しました。
「早く早く、バスが出ちゃうよ」
女の子がバスの脇に立ち止まって、大きく手招きしていました。バスの運転手が運転席に座って、男の子が道路を横切るのを待っていました。女の子が先にバスに乗り込みました。
「はい、これ。好きなものを選びな」
運転手が持っているものを差し出しました。それは、コーヒー牛乳とフルーツミックスジュースの紙パックでした。
「わあ、ありがとうございます」女の子は喜んで運転手にいい、次に男の子にいいました。「ねぇ、どれにする?」
男の子は女の子と運転手の顔を交互に見て、うつむいていました。
「じゃあ、私こっちにする」
女の子はフルーツミックスジュースの紙パックを取りました。運転手はコーヒー牛乳を男の子に手渡しました。
「あっ、ありがとうございます」
男の子が運転手にお礼をいいました。
「どうだった? 海は」
「うん、すごかった。太陽が水平線に沈むところが見れて」
「ここまで来た甲斐があったかな」
運転手がにこりと笑いました。女の子もつられて笑いました。
「さぁ、そろそろ出発の時間だから、また席に座ってくれ」
運転手はそういって、姿勢を正しました。バスのエンジンを掛けて、乗降ドアを閉めました。
二人は一番奥の後部座席に座りました。女の子はリュックサックを脇に置きました。
「バスが発車します。右に曲がりますのでご注意ください」
バスは動き出して、海岸通りを元来た道に戻りました。
「さぁ、飲みましょう」
女の子は早速紙パックにストローを通して、一口飲みました。男の子もつられて、コーヒー牛乳の紙パックにストローを通しました。
「ねぇ、見て」
女の子が空の方を指しました。男の子はちょうど水平線に消えていく夕日を目にしました。真っ赤に焼けた空が一瞬にして暗くなりました。
「見れて、良かったね」
女の子が男の子にささやきました。男の子はしばらく考え込んでから、口を開きました。
「――でも、あの写真の風景とは、場所が違うよ」
「それでも、ここに来てよかったでしょ」
女の子はほほ笑み掛けました。それは、男の子が最初に見たときの、あの満面な笑みでした。
「また来ようね」
「うん」
男の子ははにかんでいました。うきうきした気持ちでストローに口につけて、コーヒー牛乳をすすりました。
二人を乗せたバスは、海岸通りから外れて、小高い丘へと向かいました。
バスのほど良い振動が、幼い二人を優しく包み込みました。女の子と男の子は歩き疲れていましたので、すぐに二人とも寝入ってしまいました。男の子の肩に頭を当てて、女の子はすやすやと眠っていました。女の子が被っていた麦わら帽子は、いつの間にか床に落ちていました。
運転手はルームミラーに映った子供たちを見て、口元を緩ませました。
バスはヘッドライトで照らしながら、暗がりの道路を走っていました。幾度もバス停留所を通り過ぎましたが、乗客はひとりもいませんでした。
二人が雨宿りをした停留所の小屋は、ひっそりと静まり返っていました。三日月を水面に映し出した田んぼでは、カエルの大合唱が始まりました。牛やブタたちは各自の寝床の小屋に入って、夕飯の干し草や穀物を食べていました。菜の花やレンゲソウは風に吹かれて、さらさらと揺れていました。
明かりを照らした二両の電車が、川に架かる鉄橋を渡りました。海へと続く川が、穏やかに流れていました。女の子が浮かべた笹舟は、今も海を目指して進んでいます。土手の遊歩道では、懐中電灯を持った人が愛犬と散歩を楽しんでいました。
部活や遊びで利用された広場では、芝生たちが明日に備えて小さな葉っぱを広げていました。鳥たちが木々の寝床に集まっていました。
やがて、二人を乗せたバスは、住宅街へと入っていきました。
「お二方、そろそろ降りる準備をしてください」
運転手はアナウンスを告げました。そして、バス停留所でもない所で、バスを停車させました。バスの横を幾台もの車が通り過ぎていきました。
運転席を立った運転手は、バスの最後尾にゆったりと歩いていきました。
「着いたよ」
運転手は女の子の肩をとんとんと叩きました。疲れてぐっすりと眠っていた女の子は、うとうととしながら目を覚ましました。
「バスを降りて、お家に帰りな」運転手はいいました。「気を付けて、帰るんだよ」
女の子は窓の外に目をやると、我が家の前の通りであることがわかりました。
「ありがとうございます」
女の子は充実した笑顔をしました。
その日の夜、いつもより遅い夕食を、女の子がはしゃぎながら取っていました。
「あのね、ママ。今日海を見に行ってきたんだよ」
「そうなの、いいわねぇ」
キッチンに立っていたお母さんがいいました。
「うん」女の子はごきげんに大きくうなずきました。「それでね、ママ。いろんなことがあったの――」
完
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