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一章
毎日のように人が死に、あるいは除隊していく砦の兵士においても、とくに親しい者との別れは、やはり切ない。
季節は夏。風の月。
ワレスが砦に来て、ちょうど一年になる。
「ワレス隊長」
「泣くな。めでたいことだぞ」
「でも……」
泣いているのは、アブセスだ。彼は本日をもって砦を辞め、故郷へ帰っていく。
「おれ、もっと、隊長のお役に立ちたかったです。なんにもできなくて……以前、ブラゴール皇子の事件のときも、せっかく大役を任せてもらったのに、失敗してしまって……」
「あれはおまえのせいじゃない。それにな。おまえは充分、役に立ってくれた。荒くれ者のがさつな連中のなかで、おまえの従順さがどれだけ、おれを救ってくれたと思う。今でこそ隊長風を吹かせてられるが、分隊長になったばかりのころは、ひどかったからな。あの当時、おまえみたいなやつが一人もいなければ、おれは心底イヤになって、生意気な部下を皆殺しにしていただろう」
「そんな……おれはあたりまえのことをしただけですよ」
「そのあたりまえが、ほかのやつらにはなかったんだ。今だから笑い話だが、死んだブランディのやつ、おれの裸の絵を隠し持ってたんだぞ。それでなぐりあって……クソッ。もう二、三発なぐっておけばよかった」
アブセスは泣き笑いになった。
アブセスはワレスが分隊長だったころからの部下で、小隊長になって以降は部屋もいっしょだった。ワレスの洗いものや身のまわりの雑事をすすんでこなしてくれた。ふだんはおとなしく目立たないが、いなくなると思うと、正直、さみしい。
しかし、これでいい。アブセスはとくべつ剣の腕が立つわけではないし、勘がするどいほうでもない。
本人も自覚があるようだが、今日まで無事だったのは運がよかったせいだ。同室のクルウがそばについていてくれたから、彼の手腕で生き残ったというのが、ほんとのところだ。
このまま砦にいれば、いずれは屍になって故郷へ帰るはめになる。ましてや、本人は初めから一年と期限を決めての志願だ。ワレスのもとにいたくて、その期間を延ばしていた。それで死なれたのでは、ワレスのほうが後味が悪い。
(おれに鏡映しの文字の罠をかけた、魔神のときのようなことが、いつまた起こるかわからない。もしほんとに一大事になれば……砦が戦場になれば、アブセスみたいなヤツは、ひとたまりもない)
あの魔神が見せた悪夢のなかで、アブセスの血まみれの死顔を見た。それが気にかかってならないワレスだった。アブセスに砦を辞去するよう強く勧めたのは、ワレスだ。
「おまえが無事、故郷へ帰ってくれれば、おれも安心だ。おまえは死なせるには惜しい」
アブセスは何か言いたそうにしていたが、最後の別れに水をさすのはどうかと考えなおしたらしい。
「どうか、隊長もご無事でいてください。生きて……そして、今度は国内で、ぜひ会いましょう。私の実家はテレント地方のペレトという街で茶屋を営んでいます。ペレトは砦への輸送隊の出発地点ですから、ワレス隊長もここへ来るときに通過なさったんじゃないかと思います。そこの『若葉屋』という店です。近くへお越しのときは必ずお立ちよりください。私も、私の家族も、できるかぎりのもてなしをします。これはくわしい住所と地図です」
手書きの地図を渡される。
「おれが砦を去るときには、きっとよっていこう。元気でな。アブセス」
ワレスが肩をたたくと、アブセスはまた泣きそうになった。
「はい。隊長も……」
「さあ、除隊者の点呼が始まるぞ。おれも、あとで時間があれば、もう一度、見送りにくるから」
「はい……」
輸送隊の係が除隊者に整列をかけている。うるんだ子犬のような目で見るアブセスに、ワレスは安心させるように笑いかけた。
「大丈夫。おれは死なない。死神を味方につけているからな」
「毎日、隊長たちのご無事を祈っています。小隊長、分隊長。クルウも、みんな、お元気で」
ハシェドやクルウともども同室の三人が集まっていた。アブセスはクルウとも抱きあい、グチを聞いてくれてありがとうとかなんとか言いあっていた。が、最後に一つ敬礼して、輸送隊のほうへ走っていく。
二旬に一度の買い物を楽しむ兵士でにぎわう前庭。そのなかで、ワレスたちだけが、やけにしんみりしていた。
「アブセスがいなくなると、さみしくなりますね。部屋も三人になってしまいますし」
ハシェドに言われて、ワレスはドキリとした。
そうなのだ。アブセスが無事に故郷に帰ってくれるのは嬉しい。が、それが一番の問題だ。
砂漠の国ブラゴールと、ユイラ皇帝国の混血のハシェド。こまかな巻毛の黒髪。焼きたてのパンにも似た健康的な褐色の肌。ワレスの愛する、ハシェド。
(三人になれば、以前よりますます、おまえのことを意識してしまうだろうな)
きっと、ハシェドもそうなのだ。だから思わず、本音が口をついてでた。
(ハシェドはどうやら、おれのほんとの気持ちに気づき始めたようだ)
あの魔神の夢のなかで、ハシェドは言っていた。
隊長もおれのこと、ただの友人以上に想ってくれているんじゃないかと、薄々、気づいていた。どんなわけがあるのか、あなたが話してくれるまで待つつもりでした、と。
(まあ、そうだろうな。おれはさんざん、キスしたり、抱きしめたり、おまえを翻弄したあげく、事情があって誰も本気で愛するわけにはいかないのだと言った。それは、気づくよな)
ワレスの事情。
ワレスの愛する人は、必ず死んでしまうという運命。
ハシェドを運命に殺されたくないから、愛していないふりをしていなければならないのだと、いったい、いつになったら打ちあけることができるだろうか。それはハシェドが砦を去るとき。あるいは……。
(ハシェドの気持ちが、おれから離れたとき……か)
ハシェドがワレスのことなど気にしなくなって、ふうん、そうだったんですかと聞きながせるようになれば、打ちあけても害にはならないだろう。
しかし、そんな日が来るのは、ワレスにとって、つらい。
(ほんとに不毛だな。おれの恋は)
ワレスは嘆息して、気分を切りかえた。
いつまでも感傷にひたっていてもしかたない。そんなことをしたからといって、自分の運命を変えられるわけではないのだ。
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