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件の水族館は、海老反りのような体制をとった大きな鯨という独特の造形をしている。なんでも著名な建築家が設計したらしく、外観だけでも結構な評価をされているそうだ。
「それにしても水族館なんて何年ぶりだろ」
午前十時半。日差しは強く結局姉が言った通りに私と樹は二人で水族館へと行っていた。私がチケットを持っているのを見た姉は大きく溜息をついて「樹くんに渡しなっていったじゃん……」と非難の目を向けた。そんなこと言われても……。と俯くと、スマホを操作し樹に「今度の土曜に水族館に一緒に行ってほしい」という旨のメッセージを送ってしまったのである。お人好しの樹はそれをあっさり承諾し、今に至る。
黒いシャツにジーンズという格好の樹は「綺麗な建物だな」と水族館を見つめている。短い袖で動きやすそうな上に涼しそうな格好だ。私も姉にお下がりの白いワンピースを着せられなかったら涼しく動きやすい格好で出ることができたのに。足元もヒールの付いたサンダルなので歩きにくい。青い花の飾りは可愛らしいのだけれど。
「お姉ちゃんがごめん」
「いや……元々勇気と行く予定だったし、気にするなよ」
それに朱音さんが急に誘ってくれるのには慣れてるしと笑顔を浮かべる。やっぱりお人好しだ。
鯨の口に飲み込まれるように入口を通り抜ける。すぐにラッコの水槽に出迎えられる。
子どもたちがのんびりと泳いでいるラッコたちに手を振ったり思い思いにはしゃいでいる。テレビでは何度か見たことがあるけれど実際に見てみるラッコは思った以上に可愛い。樹も写真を撮っているようだ。勇気くんにメッセージアプリで送るのだろう。せめて写真ぐらいは邪険に扱われなければいいのだけど。
「パノラマ水槽の方に行ってみようか」
樹の提案に頷く。この水族館の目玉であるパノラマ水槽は水族館の中央部分に設置されている。そこに行くまでにも熱帯魚の水槽や近くの海を模した水槽など、見どころは数えきれない程ある。
海の生き物の系統樹が壁に描かれた順路に従って歩いていくと、小さい水槽が壁に埋め込まれその中に貝が鎮座しているコーナーに出る。地味な貝の展示ということで人はまばらだ。薄暗い部屋の中で、通路を示す床の模様と水槽、そして非常灯だけがぼんやりと光を放っている。
小さな狭い水槽の中で物言わぬ貝がただそこに在る。それだけだ。きっと自分にどんな模様が刻まれているのか一生知ることが無いのだろう。けれどそれでも存在意義を十分に果たしている。ただそこにいるだけで平穏が保たれる。
「こうして見るとちょっと可哀想だな」
樹が隣から水槽を覗き込む。すぐに避けようとしたけれど急なことだったからか竦んだように足が動かない。思わずスカートの裾を握る。
「……狭い水槽に閉じ込められてるから?」
すぐ隣の樹の瞳を見る。幼いころから見ている瞳は黒く静かで、吸い込まれるようだ。彼は貝から目を離さない。エアポンプから途切れることなく酸素が供給されている。泡が延々と上へ上へ向かっていく。微かな水流で敷かれている砂がほんの少し動いたように見えたが、錯覚かもしれない。
「いや、この水槽は何やっても壊せないのにここでじっとすることしかできないのが、可哀想だなって」
首を傾げる。どういうことだろう。
樹は私をちらりと見て、ゆっくりと口を開く。
「どうせこの狭い水槽から出られないのに何もできないだろ、この貝は」
樹の目が伏せられる。私も、彼の横顔から貝に視線を移す。分厚いアクリル板の向こうで物言わぬ貝はぴったりとその淵を閉じていて、中身はやはり見えない。
人々の騒めきは遠く、泡が吐き出される音にかき消される。ひんやりとした空気が頬を撫でる。
「そろそろ別のところ見に行こう」
もう十分なのか、樹の視線は通路へと向かっている。私はこの貝をもう少し見ていたかった気がしたけれど、先に歩き出した彼の後をついていく。無言を貫いた貝は追ってくるはずなんてなく私の後に置いて行かれる。けれど、私たちが去っていったことも、あの貝は知る由が無い。
次の展示は熱帯魚だ。色鮮やかな魚たちが水槽を彩っている。心なしか先ほどの貝の展示よりも照明が明るいような気がする。カクレクマノミやナンヨウハギなど人気のある魚の水槽の前では幼い子どもたちが目を輝かせている。
「わ、やっぱり人が多いな。大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
「ならいいけど」
特に人が集まっている水槽では、水族館のスタッフさんがちょうど餌をあげているところだった。群がる人々の肩越しに小さく揺らめく色を見る。生きるため貪欲に餌に群がり狭い世界の中を行ったり来たりしている。
少し歩くと、トンネル水槽に出た。白い光に目が眩む。
ゆっくりと瞬きを繰り返した私を迎えたのは青い世界だ。先ほど目を刺した光が水に揺られている。その間を魚が縫うように泳ぎ木漏れ日を生み出す。海の底から空を見上げているような光景に思わず息をのむ。
遠かったはずの鮮やかな魚が群れを成してすうっと私の横を通って遠くへと去っていく。それを目で追うとその先に樹がいた。目が眩んでいた間に進んでしまっていたらしい。
「まっ……」
声は出なかった。トンネルの中には少なくない人がいる。男性が一人、怪訝な顔をしてこちらを振り返る。魚の群れが頭上を通っていったのか、視界が黒に染まり水が揺れる。再び光が差し込んだ時には樹も通りすがった人もトンネルの中からいなくなってしまった。
息を吸い込む。ゆっくり吐き出しながら前を見つめる。
トンネルの先はこの水族館の目玉であるパノラマ水槽だったはずだ。
足を踏み出す。海の底を抜けて、樹がいるはずのパノラマ水槽へと。
色も光も視界の端を流れていく。水槽の向こう側へと私は行くことができる。私は口を閉ざした貝でも、右往左往するだけの魚でもない。私を見てくれる樹に言葉を伝えることができる。それを望みさえすれば。
駆けだしそうになるのを抑える。一歩一歩進む。開けた場所に出る。この水族館の目玉のパノラマ水槽が大量の水とその中で生きる魚たちを抱えて、そこに在った。
トンネルの出口のすぐ横で樹が待ってくれていた。心配そうにこちらを見つめている。
「大丈夫だったか? 先に行っちゃってごめん」
「いいよ、私の方こそごめん」
首を振る。樹は頷くとパノラマ水槽に目を向ける。瞳がキラキラと輝いている。私も改めてそれに目を向ける。海を切り取りそのまま鎮座させているかのようだ。ここの魚たちは悠々と泳いでいる。群れで固まり同じところをぐるぐると回っているイワシにサメは構わず泳いでいる。
巨大な水槽に合わせて大きくスペースを取っているからか、相対的に熱帯魚のコーナーよりも人がまばらに感じる。そのため簡単に水槽の近くへと移動ができた。
ナポレオンフィッシュがこちらに近づき、じいっと見つめている。もちろん彼、あるいは彼女が私と樹を認識しているのかなんてわかるわけがないのだが、愛嬌のあるつぶらな瞳の中には確かに私たちの姿が映っている。
分厚く丈夫であろうアクリル板のおかげでこの魚たちは自由に──とは言っても限られた世界の中で──生きている。アクリル板は好き勝手に泳ぐ魚たちと大量の水を支えている。決して壊れることはなく。
隣の彼を見上げる。彼は意識していないだろうけれど、口角が微かに上がっている。いつも隣にいて、いつも私を待ってくれていたひと。
そっと拳を握る。ゆっくりと息を吐く。私と彼以外の人間の声が遠ざかっていく。
「あ、あのね」
絞り出した声は震えていた。その上、弱々しい。我ながら情けないことだけれど、声は出せた。
樹がこちらに瞳を向ける。彼の瞳に私が写っている。確かに私を見てくれている。それさえわかれば十分だ。
するりと口から言葉がついて出る。
「私、樹のことが好き」
瞳が大きく開かれる。ぽかん、と口が開きそうになっている。幼馴染の初めて見る表情に、私は思わず笑ってしまった。
「な、んで突然……」
今度は樹の方が声が小さくて、普段とは逆だななんて呑気に思ってしまう。
「樹が言ったんだよ。とりあえず言っておいたらって」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す樹からそっと視線を外し、水槽を見つめる。ヒビ一つ入ってはおらず、向こう側では先ほどまでと同じように魚たちが悠々と泳ぎ続けている。
樹がどんな返事をしてくれるのか、今の私にはわからない。もしかすると拒絶の返事かもしれない。それでも、今まで樹と一緒に過ごしてきた時間や世界は壊れない。
臆病な私にとっては、それだけで良かったのだ。
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