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「な、ちょ、大丈夫?」
幼い樹の声が震えていたことを覚えている。確か私が電柱にぶつかったせいで額から血を流したまま歩いていたのだ。もう自宅は目と鼻の先だったから家に帰って手当をすればいいかと思っていた。しかし当時の樹にとっては衝撃的なものだったのだろう、瞳に涙を浮かべ顔を覗きこんでくる。
「うわぁ……血が出てる……」
痛くない? と聞いてくる樹に、じわじわ痛いと答えたのだ。昔からぼんやりとしていた私は怪我を繰り返していたため、流血には慣れっこだった。ハンカチを差し出してくる樹にゆるゆると首を振る。
「いいよ。気にしないで。慣れてるから」
「慣れちゃダメだろ!」
しかし、そんな私の態度に樹は腹を立てたようで、睨みながら額にハンカチを押し付けてくる。ハンカチがじわじわと赤く染まってしまう。
「あの……ハンカチ汚れちゃうよ?」
痛むと言ってもそれほどのものでは無い。それよりも初めて会った彼のハンカチを汚してしまう方が忍びない。どうにかハンカチを離してもらおうと彼の手を掴むが、頑なに放してくれない。
「……ねえ、私の家すぐそばだから。だから大丈夫」
恐る恐るマンションの方を指さすも、「だからって今血を流しっぱなしはダメだろ?」と呆れたように返される。
「それに全然大丈夫に見えない。……ある程度血を拭けたから、後はキミの家で治さないと」
額から離されたハンカチは赤黒くなってしまっていた。汚してしまったのだという罪悪感が堰を切ったように溢れ出る。
「……ご、ごめんなさい」
「なんで謝るんだよ。それより早く家に帰ってちゃんと絆創膏とか貼った方が良いって」
肩を竦めた樹からハンカチを奪う。ぽかんとした表情でこちらを見つめる樹に「洗って返す……」と消え入りそうな声で言った。樹は目を細め、大きな溜息を吐く。
「……あのさ、言いたいことがあるなら言わないと。わからないし……」
「うん……」
こくりと頷く。当時の私はこのハンカチの血の跡はどうすれば消すことができるだろうかと必死に考えていた。樹の言葉にではなく一刻も早く家に戻りたかったが故に頷いていた。
そんな私の様子を樹は心配そうに見つめていた。結局ハンカチを返すことはできたけれど、出会いがそんな調子だったからか、樹は幼い頃からしょっちゅう私の世話を焼いてくれるのだ。
「あの時からずっと……迷惑かけてばっかりだな……」
身体を洗って泡を流してしまうと、さっさとお風呂から上がることにする。湯船に浸かり直す気分になれなかった。脱衣所から出るとエアコンが付けられていたようで、薄い生地のパジャマを着た私には少し寒く感じる。
パート帰りの母と入れ替わるようにリビングに戻る。きびきびと動く母は私の秘かな憧れだ。
「お帰り、お母さん」
「ただいま、ご飯できたから食べておきなさい」
母はいわゆる烏の行水で、なんとシャワーを浴びるだけでお風呂から出てしまう。そのため私と姉が夕食を取っていても結局一緒に食卓に着くことになる。
今日の夕食は私の好物の鯖の塩焼きだったけれど、味はよくわからない。初夏の暑さに中てられて疲れすぎたのかもしれない。それとも、のぼせてしまったのだろうか。分散しようとする思考を纏めようとしながら黙々と夕食を食べる。
「あんた、今日は普段以上にぼんやりしてるわね」
肩を竦めた母も台所へ食器を片付けに行ってしまう。私も食器を重ね、それに続く。
「なんか悩みでもあるの?」
「……わからない。私、悩んでるのかな」
「まぁゆっくり考えなさい。得意でしょう、考えるのは」
得意と言うよりも、ついそうなってしまうというだけなのだけど。
母や姉との会話もそこそこに自室に戻る。小学校のころからまるで変わらない部屋だ。ベッドの中で目を閉じてもなかなか寝付けない。また明日も学校があって、樹に会う。普段通りだ。普段通りにしていれば、何も間違える必要はない。
朝を迎え、姉からもらったチケットを鞄に仕舞っていると、じっと姉に見つめられる。
「じゃあちゃんと樹くんに渡しなさいよ」
「わかってるよ……」
何度も何度もかなりしつこく言ってくるので「何度も言わなくっていいよ」と返すと、私の瞳を覗きこんでくる。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だって」
「なら良いけど」
姉を見送り学校へ向かう。母はとっくにパートに出ているので最後に家を出る。鍵を閉めて徒歩で十分の道を歩く。いつもと同じように。いつもと変わらない道を歩いていく。
学校の教室の扉をくぐると、普段通り朝早く登校して予習に取り組んでいる真面目なクラスメートの中に樹の姿を見つける。
……珍しい。普段はもう少し遅くにやってくるはずなのに。
「おはよう、樹。来るの早いね」
自分の席、つまり樹の前の席に座る。樹は何やら上機嫌な様子だ。
「勇気の調子が良くなったみたいで。『もう世話を焼くのはいいからさっさと学校に行け』って追い出されたんだ」
なかなか酷いことを言われている気がするが、可愛がっている病弱な弟に言われたことなら気にならないのだろうか? 彼のこんな笑顔は初めて見たかもしれない。常に何かに急き立てられているような彼の表情を見続けてきたから新鮮だ。もちろん、良い意味で。
「良かったね、勇気くん」
一限目の準備を行う。今日の一限目は現代文の授業だ。鞄から教科書を取り出し、借りたハンカチと一緒にチケットを取り出す。長方形の紙面の中でエイが泳いでいる。
「……そうだ。お礼にあげるね、これ。お姉ちゃんから貰ったんだけど」
首を傾げる樹にハンカチを渡した後、改めて二枚のチケットを差し出す。
息を吸って、口を開く。
「良かったら……」
渡せばいいんだ。
「その……勇気くんと一緒に行ったらどう?」
きょとんとした顔の樹に笑いかける。樹にチケットを押し付けるように渡すと前を向いて授業の準備を再開する。教科書を開き、文字列をぼんやりと眺める。「あ」「る」「日」「の」「暮」「れ」……「大」「き」「な」「面」「皰」「を」……文字が意味を結ばずに流れていく。
「……はぁ……」
机に突っ伏した。樹は予習をしているのか話しかけてこない。瞼を閉じる。どうせ眠れはしないだろうけど、そうする他に無かった。
その日はやけに時間が経つのが早かったように思う。朝、樹にチケットを渡してから授業には集中できずにノートの隅っこに文字でも落書きでもない点々が量産されてしまったし、お弁当も喉を通らない。午後の授業も瞬きの間に過ぎ去ってしまった。樹は他の友人に用があるらしく私は一人で帰路に就く。ふと気がつくとマンションの前に立っていた、という有様だ。
額の汗を拭う。今日も変わらず空は青い。夏にしてはカラッとした晴天だと天気予報では言っていたはずなのに、じっとりと暑く身を包んでいるように感じる。
「……あれ。瑠璃さん?」
マンションの玄関の扉が開き現れたのは勇気くんだ。樹とよく似た瞳を瞬かせ、首を傾げながら私を見上げる。
「どうしたの、こんなとこでぼーっとして」
「……いや……」
「そういや兄ちゃんに水族館のチケット渡したの瑠璃さんでしょ?」
なんでそのことを知っているのだろう? 頷くと彼はポケットの中から見覚えのある封筒を取り出す。間違いなく、私が樹に渡したチケットだ。
「なんで勇気くんが持ってるの?」
「帰り道で会って渡されたから。そんなことより……兄ちゃんと俺にってくれたけど、俺もう子どもじゃないし、水族館とか別にいいよ」
いやまだ小学五年生の君は十分子どもだと思うんだけど。
そう思う私に勇気くんがチケットを押し付ける。樹が絶対にしないような生意気な笑みを作る。
「それにさ……兄ちゃん鈍いからハッキリ言ってやんないとわかんないよ」
「それはどういう……」
「とにかく返すね。今度はちゃんと兄ちゃん誘いなよ」
言いたいことだけ言って勇気くんはさっさと走っていってしまった。勇気くんは幼い頃から病弱で昔だったら外で走るなんてできなかったはずだ。……でも、人の言うことを聞かずにさっさと行動してしまうところは変わらない。
手の中のチケットを握りしめ、私は自分の家へと向かった。
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