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私はよく男の人に誘われる。
この状況をグチにすると、嫌みにしか取られないことにも困っている。
とにかく、誰からも声をかけられたくない。たとえどんなイケメンであろうと。
そんな私にとって「またね」という言葉は、本気の断り文句であるのに、どうしてもわかってくれない相手がいる。
それは、演劇部の後輩、黒崎歩だ。
黒崎君は、照明や音響をしたくて演劇部に入ってきた。他にも演出や脚本専門の部員もいるのだからおかしなことではない。しかし、黒崎君ほどの容姿があれば、普通は役者を選ぶ。
背は高く、声もよく通る。舞台映えしそうなのに、もったいない。
裏方部員も一緒に「あめんぼのうた」で発声練習をする。黒崎君は滑舌もいい。
引っ込み思案でもない。裏方に徹するのはもったいない気がする。
私が黒崎君に興味を持っているのはその点だけだ。それなのに、黒崎君は私が自分のことを好きだと思いこんでいるようなのだ。
部活の休みの日に、家に来てほしいと、何度も誘われる。だからいつも「またね」と言ってはぐらかす。
私が黒崎君に興味を抱いたきっかけは夏の合宿だった。夏休みに県下の高校の演劇部員が集まり、三日間の集中レッスンをうける。 他校との交流もあり、毎年楽しみにしている。その合宿で、たまたま黒崎君と「感情表現」のレッスンで同じグループになった。教室ほどの広さの部屋で、二十人ほどが合同レッスンを受けた。
「感情表現」のレッスンで何をしたかというと、指導の先生が「泣く」といえば全員で大泣きし、「笑う」と言えば、腹を抱えて笑うという具合だ。
もちろん人それぞれの解釈で、声を殺して泣こうが、号泣しようが自由だ。 私は、両手で顔を隠した後、座り込んだ。指の隙間から、他の人を観察した。
黒崎君の表現は、とてもシンプルだった。
立ち尽くし、右腕で目元を隠しながら俯いた。かすかに肩も震わせていた。ほとんどの人が、この世の終わりと言わんばかりに泣いていた。それなのに、黒崎君が一番悲しそうに見えた。
笑いも個性的だった。
私を見て、そう、見下したような顔で笑ったのだ。
私たちはつい、舞台に立つことを前提に表現する。それはそれで間違いではない。遠くにいる観客にも伝わるように配慮するのは当たり前だ。
黒崎君はどの課題にも、自由だった。私は次に黒崎君がどう演じるかが気になって、自分はどうすればいいのかもわからなくなった。
それから、私は黒崎君を観察するようになった。でも、恋ではなかった。
黒崎君の観察をし始めて、数ヶ月経った。三年生も引退し、制服も冬服になっても、私はまったく飽きていなかった。
黒崎君の動きは常に静かだった。とろいわけでも気だるいわけでもなく、とにかく無駄がないのだ。
騒がないし、はしゃがないけれど、冷たくもない。独特の雰囲気がある。
観察していて気づいたことがある。
愛想良く部員と話した後、その場から離れて一人になると、必ず肩を落として一息つくのだ。実は、無理をしているのだろうかと思った。
演劇をする者にとって、人間観察は重要なことだ。
今、私の興味は黒崎君に向いている。ただ、そのせいで、よく目が合ってしまう。
「あんた、黒崎が好きなの?」
仲のよい杉山夏樹に訊かれたことがある。
「面白いから興味があるだけ」
「黒崎もてるし、そんな風だとかっさらわれるよ」
やっぱりもてるのかと思った。確かに女子の方から黒崎君に寄っていく。もてるのは理解できる。だけど私は違う。
しかし、いくら自分でそう思おうと、他の部員も本人も勘違いしているようだ。 私は、自惚れる黒崎君の行動を観察し続けた。
目があった瞬間に、はにかむことも慌てて目をそらすこともあった。
最初は楽しかった。ただ、誘われたときから変わった。黒崎君は私に見せたいものがあるから、家に来てほしいと言ったのだ。
私はもてるわけではない。誘われるだけだ。校内でも遊びに行ったときでも。
夏樹曰わく「顔がビッチだから」らしい。
男子の考えていることは、ほぼHに関することだと夏樹から教えられ、誘いはすべて断ることにしている。
いろいろ断り文句を考えた時期もあった。今は笑顔で手を振って「またね」と言う。
黒崎君は私の言葉に「またっていつですか?」と返してきた。
「その時にならないとわからない」
「じゃあ、また訊きます」
それから五回誘われた。
さすがにこれ以上断るのも悪いので、次は家に何かを見に行ってみようと思い始めた。 さんざん観察して、黒崎君が悪い子ではないと思えるのも大きい。
これは、恋愛感情ではない。だけど、黒崎君のことはもう少し知りたい。誘いのサイクルからいくと、そろそろだった。
黒崎君が近づいてきた。
「明日の放課後は?」
「大丈夫」
「よかった。じゃあ、校門で待ってます」
私は頷いた。
黒崎君の部屋は、少しも想像できなかった。私服も見たことがない。実際、黒崎君のことをほとんど知らないと気づく。この機会に、役者を希望しない理由を訊こう。
幕が上がる前の緊張感と、演じきり幕が下りるときのあのなんとも言えない充実感は、味わえば病みつきになる。
もう一度、舞台に立ちたいと思う。
舞台において、照明や音響も重要だ。タイミングが合わなければ台無しになってしまう。
それでも、黒崎君には舞台の上があっている。他の部員の前で説得するのはよくない。この機会に次の舞台で演じてみる気はないか訊いてみよう。
そう考えると、黒崎君の家に行くことが少し楽しみになった。
約束の日、HRが終わったので、校門へ向かった。
黒崎君の家はどの辺りかもわからない。少しワクワクしてきた。
まだ黒崎君は終わっていないようだ。門柱の脇で待つことにした。今年は残暑が厳しかったが、さすがに最近は肌寒くなってきた。
しばらく立っていると、男子に声をかけられた。
「藤巻あんじゃん。何してんの?」
知らない人だった。この間の文化祭でヒロインだったこともあって、一方的に知られていることが多い。
髪型も、制服の崩しかたも、見るからに軽い感じだ。
バッジから三年生なのがわかった。先輩は少し面倒くさい。
「待ち合わせです」
「へえ、男子? 今度俺とも遊んでよ」
勝手に決めつけられたうえに、誘われた。
「また、タイミングがあえば……」
ここは適当にはぐらかす。
「ふーん、噂通りなんだ」
意味ありげな顔をされた。
「じゃあ、次、良いときに校門に立っといてよ」
先輩は、そう言い残して帰って行った。
どんな噂があるんだろう。三年生の間で広まっているのかもしれない。嫌な予感しかしない。三年生は秋の文化祭で引退したが、時々様子を見に来る。会ったときに訊いてみることにした。
「先輩、お待たせしました」
黒崎君だ。 さっきの先輩に比べて、数百倍、好感度が高い。
「来たばかりよ」
結構待っていたし、少し嫌な思いもしたが、気を遣わさないように、そう言った。
「僕の家、すぐそこなんで」
黒崎君と並んで歩き始めた。家は、学校に一番近いマンションだった。
エレベーターを待っている間で、急に緊張してきた。何か話さないと落ちつかないので話しかけた。
「そういえば、さっき、知らない先輩から『噂通り』って言われたんだけど、どんな噂なんだろうと思ってて」
黒崎君の方を見る。目があった。複雑な顔をしている。噂の内容を知っているのかもしれない。
「気にしない方がいいですよ」
やはり、良い噂ではなさそうだ。
「気にするってほどでもないんだけど」
エレベーターが開いた。
黒崎君の家は五階だった。家の人にはどの程度の挨拶をすればいいのだろう。「部活が同じです」くらいしか、言いようがない。彼女だと誤解されないように、かちっとした方が良さそうだ。
黒崎君は、鍵を開けた。
「家の人、留守なの?」
「一人暮らししてるんで」
「……」
押し黙ってしまった。
一人暮らしだとは、思いも寄らなかった。
男子の家に行くのは、小学生の頃以来だ。夏樹が言っていたように、男子が変なことばかり考えているのなら、一人暮らしの家に入るのは、まずい気がしてきた。
自意識過剰だと思われるのも嫌だ。
黒崎君は、良い子そうなので、変な心配は杞憂だと思いたい。ここは動揺していると気づかれないことが大事だ。
「一人暮らしなんて、憧れる。お邪魔します」
自然体を演じる。
中に入って驚く。黒崎君の家は、学生が一人暮らしをする間取りではなかった。
「すごく広い……」
「一人暮らしをしてみたいって言ったら、母親がここを買って……僕が使わなくなったら、投資マンションとして賃貸にするそうです」
私には、何の話なのかさっぱりわからなかった。
「ソファにかけて、待っていてください。飲み物は、何がいいですか?」
「べつに、何でもいいよ」
そんなに長居をする気はない。
立派なソファだった。ガラステーブルも洗練されたデザインだ。
三人は座れそうだったけれど、端の方に座った。
黒崎君は、グラスにオレンジジュースを注いで、持って来た。
「なんだか知らないけど、見せてもらう前に、少し話しをしてもいい?」
私は、私の本題に入ることにした。
黒崎君も反対端に寄って座る。変な距離感だ。
「三年生の受験が終わった頃にね、一、二年で、お礼をかねて一つ四十五分くらいの舞台を披露するの。これから準備がはじまるんだけどね」
黒崎君が頷いた。
「照明じゃなくて、舞台に立ってみる気ない?」
黒崎君は俯いてしまった。
「無理強いしようとか、そういうつもりじゃなくて、一緒に舞台に立てたらと思っているだけだから」
黒崎君の表情が暗い。そんなに嫌なのかと思った。
「まだシナリオも決まっていないし、しばらく考えといて」
私は話を終わらせた。
セリフのない端役でも経験すれば、舞台の上の心地よい緊張は味わえる。シナリオが決まってからまた誘ってみることにした。
しかし、広い部屋だ。黒崎君の家は裕福らしい。見た目もよくて、お金持ちの子で、まあまあランクが上の進学校に通うくらいの頭もあって、ほぼ完璧だ。
オレンジジュースを飲み終わった。
「今日は、先輩にいろいろ訊きたいこともあって。まず、見てもらいたいものがあるので……」
黒崎君が立ち上がった。
「ついて来てください」
私は頷いて、立ち上がった。
扉は二つ並んでいる。左側の前に立った。
「開けてください」
言われてドアノブに手をかけた。開ける。そっと覗き込むと中は真っ暗だった。
黒崎君が部屋の明かりをつけた。途端に私は悲鳴を上げた。それだけではなく、腰を抜かして座り込んだ。 心臓が飛び出すかと思うくらい激しく打っている。
黒崎君が私の肩に手をのせた。
「大丈夫ですか? そこまで驚くとは思っていなくて……ごめんなさい」
私は深呼吸をして顔を上げた。
見た瞬間は、とにかく不気味なものがあって驚いた。
よく見ると、等身大のゾンビの置物だった。部屋のあちこちに、いろんな大きさのゾンビの人形が並べられ、ポスターも貼ってある。
それに、ビニール人形の独特な臭いがする。腐敗臭がしないだけましではある。
とにかく異様な光景だった。
黒崎君が相当なゾンビマニアなのはわかった。しかし、なぜ私に見せたかったのだろう。
黒崎君が中に入っていく。ゾンビのマスクをとって出てきた。
「後は、教えて欲しいこともあって」
ソファに戻る。黒崎君は、ゾンビのマスクをテーブルに置いた。溶けかけの変色した皮膚が気持ち悪い。隣に座った。背が高いから、足も長い。二人きりだと思うと、些細なことに緊張してしまう。
「演じている時について訊きたいんです」
まじめな質問だった。役者に興味を持っているのかもしれない。
「何でも訊いて」
私は黒崎君を見た。真剣な顔でゾンビのマスクを見つめている。
「文化祭で、松尾先輩と恋人同士を演じて……その間って、松尾先輩にときめいたりしたんですか?」
黒崎君がこちらを見た。目が合う。私は自分の鼓動がはやくなったことで、さらに動揺した。
文化祭は、現代版ロミオとジュリエットだった。
私はヒロインを演じたが、その時に松尾先輩に対して、ときめきはなかった。
「恋人役でも、ときめいたりはしないよ」
「そうなんですか」
「あっ、だけど通し稽古とか本番は、役への入り方がちょっと違うっていうか」
衣装まで着けると、私が私でないような感じがしてくる。
「だけど、ときめいたとしても、それは私がじゃなくて、相手も松尾先輩じゃなくて、うまく言えないんだけど」
演じる対象の感情の動きと、私の意識とが同時に存在する感覚。
「演じている役の人物が主体で、その人に私の意識がとりついていて、表には出ない感じ」
練習ではそこまではならない。
「面白そうですね」
黒崎君の言葉は嬉しかった。舞台に立つ気になってくれたのかもしれない。
「ちょっとゾンビになってみます」
黒崎君はマスクを手にとってかぶった。
「ゾンビって何を考えてるんでしょうね」
黒崎君の声がこもっている。
「ゾンビは何も考えないんじゃない?」
「死んでいるから、ときめきもしないですね」
「ゾンビ好きなの、知らなかった」
黒崎君はマスクを取った。テーブルにまた置いた。
「好きじゃないです」
好きでもないのにあんなに集めるなんて考えられない。家族の趣味なのか。
「小学生の頃、学校でゾンビ映画が流行って……」
私の学校では流行らなかった。
「僕も観たかったんですが、親から絶対にダメだって言われて」
教育上良くないと思ったのかもしれない。
「ゾンビに限らず、怖いものはダメだったんです」
私も怖いものは得意じゃない。演じろと言われれば演じるがわざわざみない。
「最初は手のひらにのるくらいの小さなゾンビの人形を買ってもらったんです」
黒崎君は手のひらを上に向けた。まるでそこにゾンビの人形がのっているかのように、懐かしげに見つめる。
「少しずつ、大きく。よりリアルな作りのものに」
それなのに、好きじゃないというのだからわからない。
「なれれば、怖くなくなると思って……」
「そういうことなんだ」
変わってはいるが、納得できた。
「ゾンビ映画は観たの?」
黒崎君は頭を横に振った。
「怖いと思わずにゾンビ映画を観るって、無意味な気がして」
「ほんと、それ」
私は笑った。
「怖い映画は、よく考えたらそれほど観たくなかったんです。友達が面白いと言うものが観たかっただけでした」
「でも、わかる」
「ジェットコースターにも乗ってみたかったけど、それももういいんです」
黒崎君がため息をついた。
「舞台には憧れます。舞台の上の先輩はいきいきしていて……初めてみたのは、去年の文化祭です。学校見学もかねて行ったんです」
私が一年の時の話だ。学園ものだった。
「主役でもないのに、先輩ばかり目で追いました」
黒崎君はそれで受験を決めたと言った。
「舞台には立てないけど、先輩にスポットライトを当てる役目ができたらって」
「ありがとう」
顔が赤くなっている自覚がある。単純に嬉しかった。
「黒崎君も、舞台に立ってみればいいのに」
「できません」
黒崎君は寂しげに呟いた。
「舞台の上の緊張に、僕の心臓はきっと耐えられない」
聞き間違えかと思った。
「幼い頃から、心臓に負担のかかることは何もできずにいたんです」
私は頭の中がしびれて、何も言葉にできなかった。
「中学を卒業するときに母親が『今までは私のためにいろんなことを我慢させたから、残りは好きなことをしていい』って言ってくれて……だから一人暮らしをしてみたいって」
私は頷くこともできずに、ゾンビのマスクを見つめていた。
何も知らずに、舞台に立つことをすすめてしまった。
「舞台に立てなくっても僕は全然構わないんです。立ってしまったら、先輩の演じている姿がちゃんと観られないから」
黒崎君がそんな風に思ってくれるのは嬉しかった。
「先輩が僕のことを見ているのが、他の人の言う理由じゃないのはわかっています」
好きではない恋ではないと自分に言い聞かせてきたけれど、もしかしたら、言われている通りなのかもしれないと思った。
「明日死ぬかもしれないのは、僕も先輩も他の人も同じだけど……」
それでも黒崎君には、私たちより死が身近に感じられるだろう。
「伝えられるうちに、伝えておきたかったんです」
そんな思いを私は「またね」なんて軽くあしらった。
「ごめんなさい。はやく来れば良かった」
黒崎君は頭を横に振った。
「断られて、嬉しかったんです。先輩が噂通りではないってわかったから、だけど、どうしても知ってもらいたかったので、何度も声をかけて……。そろそろ諦めるつもりでした」
「噂……予想はしてるんだけど……」
黒崎君は教えてくれなかった。どうせ誰とでも寝るとかそういう類だろう。誰とも付き合ったこともないのに、いい加減なものだ。
黒崎君が胸を押さえながら、深く息を吐いた。
「大丈夫?」
「大丈夫です。少し心拍数があがってて」
私はどうしたらいいのかわからなかった。
「あの、迷惑でないなら、毎日僕と一緒に帰りませんか?」
黒崎君はまた深く息を吐いた。
「黒崎君の家は近いし、迷惑じゃないけど……」
「先輩の家まで僕が送ります。一緒にいれば、変な奴に声かけられずに済むでしょう」
「そんな……わざわざは、悪いよ」
「一緒にいたいんです」
黒崎君の表情が切実だったから、私は頷いた。
「ありがとう、一緒にいてくれるの、助かるかも」
私の素直な気持ちだった。
「あー良かった」
黒崎君は胸元を押さえて背中を丸めた。
「大丈夫?」
私は黒崎君の背中を撫でた。
「大丈夫じゃなくてもいいんです」
黒崎君はこちらを見た。苦しげなのに、微笑んでいる。
「驚きもときめきも何もないことで、僕の時間が延びても……意味がないと思うから」
そうだねなんて言えない。私は鼻の奥がツンと痛くなって、唇を噛み締める。
「僕は、たくさん先輩と一緒にいたいんです。段々なれて、目があってもドキドキしなくなるくらい一緒にいられたらなあって」
「ゾンビみたいに?」
黒崎君は頷いた。
「私も、黒崎君とたくさん一緒にいたいよ」
一生懸命に笑顔を作ったけど、涙が溢れてしまった。
「泣かないでください。僕はすごく嬉しいんだ。これが同情でも、演技でも、そうじゃなくても。逃げ出さずに手を伸ばして掴みとれたことで、僕は生きているって初めて言える気がしているんです」
私と一緒に帰る。そんな些細なことを、ここまで喜んでくれている。
「同情とかじゃないから。認めたくなかったけど、私……黒崎君のこと好きだから……」
「あー」
黒崎君が体を起こした。
「嬉しい……」
ため息のように言った。
「諦めることには慣れていたはずなのに……先輩のことは全然無理で……」
どうして私を思ってくれているのかはわからない。私が黒崎君から目を離せなくなった理由だって、説明はできない。
こんな風に心が通じ合うことは本当に奇跡なのだ。
「先輩、手を、繋いでみてもいいですか?」
私は手を差し出した。黒崎君はそっと私の手に触れる。冷たい手だった。
黒崎君は深いため息をついた。
鼓動が高鳴る。
黒崎君もきっと同じだろう。
「禁じられることでより、想いは強くなる」
黒崎君が呟いた。秋の文化祭で私が松尾先輩に言われたセリフだ。
「いいえ、禁じられなくても私はあなたを同じだけ求める」
「君の瞳、君の声……風になびく髪、手の温もり、もし知らずにいたら、僕は喜びも悲しみもすべてが作り物でしかない人生を送っていただろう」
「あなたと私が出会えない、そんな間違いが起こるはずがないでしょう」
「君のいなくなった世界には僕の存在意義はない」
「あなたの側だけが、私の居場所」
「たとえ触れることが許されなくても」
「心はあなたに寄り添いつづける」
黒崎君は完璧にセリフをおぼえていた。
「黒崎君やっぱり上手だよね。時々、二人で読み合わせしよ」
手は握りあったままだ。汗ばんでいるのはどちらなのかわからない。
「借り物の言葉でも、先輩相手だと……」
私は思わず笑った。
「言われてみると……松尾先輩の時は、何ともなかったのに」
特別な存在だから、このときめきがある。だけど、できるだけ同じ時間を過ごして当たり前の存在になりたい。
黒崎君とずっと一緒にいたいから。
私たちは毎日一緒に帰った。いつでも手を繋いだ。
勉強をするのでも、たとえ会話が無くても、できる限りを黒崎君の家で過ごす。
時々、読み合わせをした。
借り物の言葉で愛を語り合う。別れ際には必ず「またね」と言った。
かつては断り文句だったその言葉は、また明日も、黒崎君の時間が続いていますようにと願う、私の祈りの言葉にかわった。
私は誰からも声をかけられなくなり、嫌な噂もなくなった。
一緒に過ごすようになって一年が経つ。
私たちは相変わらず、手を繋ぐことが精一杯だった。
受験を控え、勉強をする私を、黒崎君はただ黙って見守ってくれていた。
私は進学先を地元で選ぼうとしていた。
「僕のためならやめてほしい」
黒崎君に言われた。
都会へ出て劇団に入りたいと、心のどこかで思っていた。
春が来た。
私は地元を離れることになった。
黒崎君は、新幹線のホームまで見送りに来てくれた。
新幹線がとまった。扉が開く。抱き寄せられ、ほんの一瞬唇が重なった。
黒崎君は、動けないでいる私を押して、乗り込ませた。
黒崎君が「またね」と言った。私は頷くだけで精一杯だった。
扉が閉まる。
新幹線が動き出す前から、涙で黒崎君の姿は見えなくなった。
加速していく。
黒崎君がどんどん遠くなる。
これが最後になってしまう気がして、私はその場にうずくまって泣いた。
<了>
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