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「ちょっと大丈夫かい」
「――わざとだよ! 一度やってみたかったんだよ!」
タカは恥ずかしさ十割から、声を必要以上に張り上げて、強がりの口調でごまかした。
智子は座り込みながら、必死に誤魔化そうとする息子に向かって右手を差し出すと、タカは無言で両手で母の手を掴み、お前、じゅうぶんに世界チャンピオンを狙えるよと、“ボクシングでの引退試合で若手のホープにKO負けを喫し、若手に手を差し伸べられ、その手を掴んで立ち上がろうとする元世界ランカー”を思わせるような、全てを出し切った後のような清々しい表情で立ち上がった。
智子は、不思議な景色を見るかのような目で息子の顔を見ていた。
タカは爽やかな表情のまま立ち上がり母と目が合うと、途端にばつが悪そうな顔へと変わり智子から手を離した。
そして、即席麺を三個ほど乳白色のポリ袋に入れると、「じゃあ、帰るわ」と袋に入った即席麺の銘柄を確認しながら言い玄関へと歩き出した。
「――うぉぉぉぉ!」
案の定、タカは即席麺のラベルに気を取られて歩いていたため、部屋と部屋の間の段差につまづいて転倒しそうになった。
「ちょっとだいじょうぶ!」
智子は、慌てた素振りで息子のほうに手を差し出して歩み寄る。
タカは何とか踏ん張って転倒を回避して立ち止まると、即席麺の入った袋を真上に掲げて、“ワールドカップで優勝しちゃったぜ!”と言わんばかりに、まるで優勝トロフィーをかざすかのような表情であった。
これも恥ずかしさ十割からの咄嗟の誤魔化しの行動であった。
「だいじょうぶかい」
智子は尚も心配そうに尋ねた。
「何がだよ」
タカはエセチャンピオンらしき者を継続したまま、真上に掲げている袋を顔の位置まで下げて、一個の優勝即席麺のラベルにキスをした。
智子の子を心配する親心は、タカの体から心のほうへとシフトしているような表情であった。
タカは無言で靴を履くと立ち上がり、母のほうには体を向けずに「それじゃあ」と一言だけ発して、ドアを開いて自分の家の方角へと歩き出した。
智子は慌てた素振りでサンダルを履き外に出ると、「体に気をつけるんだよ! また来なさいね!」と小さくなっていく息子の後ろ姿に向かって言った。
それに対してタカは、いつもなら振り返ることはせずに、そのまま無言で歩き続けるといった態度をとるところなのだが、なぜだかこの時は、いちど立ち止まって後ろを振り返り、「おう」と母に向かってボソリと言うと、再び正面を向いて歩き出した。
夕暮れのオレンジ色に染まる陽に照らされながら自宅に向かって歩き、タカは幼き日のことを思い出していた。
(……これで、いいのか……これで、いいんだよ)
タカは現状の自分に、心の底では虚無感のような感情を抱きながらも、作られた満ちた気持ちを上から覆いかぶせていた。
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