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「いらっしゃい。今回もボロボロだねぇ」
建て付けの悪い扉を潜れば、薄汚れたカウンターに肘をついた青年が言う。
青年は、この店主だった。
彼が身につける青い半袖のTシャツと真っ白なエプロンは染み一つなく、その姿は劣化した店には不釣り合いな程に鮮やかだった。
その横には、艶やかな毛並みを身に纏った、美しい黒猫が一匹鎮座している。
もはや見慣れた景色に、俺は構わず汚れ切ったスーツを差し出した。
「急ぎで頼む。今回で最後だ」
そう告げると、猫と同じ艶やかな黒髪をもつ青年は、目を細めてこちらを見た。
「おや、せっかくの常連さんだったのに。もうクリーニングに来てくれないの?」
ここは、町外れにあるクリーニング店。
錆びついてペンキの剥げた看板には、随分と薄くなった文字が並んでいた。
【やすい! はやい! 黒猫クリーニング】
謳い文句の通り安くて仕上がりが早く、やけに愛想の良い店主と、やけに愛想の悪い黒猫がいるクリーニング店だった。
「もう仕事を辞める。このスーツも今回で着るのが最後になるだろう。よろしく頼む」
「そんなに簡単に辞められるの? だって、お客さん……」
"殺し屋"なんでしょう?
白い肌に、血色の良い唇が弧を描く。
ただのクリーニング店の店主のくせに、その言葉は物騒なものだった。
「なんだって?」
「だって、なんでこんな汚れてるの? ……って聞いたら、お客さんが教えてくれたじゃない」
カウンターの向こうで、可愛らしく小首を傾げる青年に眩暈がした。
「……あれは冗談だ。間に受けないでくれ」
「え~! 信じてたのになぁ」
スーツの状態を確認しながら、カラカラと笑う声は実に楽しそうだ。
俺は、その笑い声を無視して財布を取り出す。
すると、ぱっと顔を上げた青年が言った。
「じゃあさ、最後のお仕事が終わったらまた来てよ。このスーツ、新品みたいにピッカピカにして再就職先でも着れるようにしてあげるから」
その言葉に、金を出そうとした手が止まる。
青年へと顔を向ければ、彼は正面から真っ直ぐに此方を見つめていた。
けれど、俺は静かに首を振った。
「いや。俺がこのスーツを着ることは、もうない」
だから、最後だよ。
心の中で呟けば、黒猫がニャアと一つ欠伸した。
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