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事件
フリーライターの僕の仕事は、わりと自由がきく。その代わりに安定した収入というものがない。それに僕の外見は、中肉中背のその他大勢に区分けされてしまうような、特徴のないものだった。だから、いくら好きになっても告白どころか、お近づきになることもしなかった。遠く離れたテラス席か、奥まった席でそっと彼女を見ていることしかできない日々が続いた。
そんなある日、事件は起きた。
いつものようにテラス席でパソコンを開いて原稿を書いていたら、ドタバタという複数の足音と怒号が聞こえてきた。その場にいた全員が音のする方を見た。
「逃げても無駄だ!」
「捕まるわけにはいかないんだよっ」
まるで白昼行われている映画のロケのようだった。先頭は犯人らしき若い男が、すっころびそうになりながらこっちへ走ってくる。
きゃーっ!という悲鳴と共に、逃げ惑う人たち。がしゃんとカップが割れる音の中、倒れる椅子をよけて、逃げてきた男が立ちすくむ彼女の腕を掴んだ。僕のすぐ前で僕に背中を向けて。
「それ以上近づくと、この女がどうなるかわからないぞ」
その男はポケットから出した折り畳みナイフを取り出し、彼女の首元に突きつける。
「わかった、わかったから、その人を離して。ちゃんと話を聞くから」
6人の刑事だろうか、あとは警察官が数人。それからその様子を遠巻きに見ている野次馬たち。僕のすぐ目の前でまさかそんなドラマが起こるとは予想外のことで、どうにもできず動けないでいた。
気がついたら、僕以外の人間はみんなずっと下がって、遠くに離れている。どういうわけか、犯人だけは僕の存在には気づいていないようで、一瞥もくれない。
___僕のこの存在感の無さがこんなときに役に立つなんて
「……!!」
その時、そっと振り返った真澄と目があった。涙を浮かべて唇を強く噛んで僕を見ている。
___助けてと言ってる?
目で問う。
そっとうなづく真澄。
僕はパソコンのカメラをそっと起動して、心を決めた。江口彰、一世一代の大勝負に出る。
そっと席を立つと、すぐそこに倒れていた椅子を持ち上げ、真澄に合図をした。
___しゃがんで!よけて!
___はい
瞬間、犯人の背中めがけて椅子を強く投げた。
「うげっ」
咄嗟のことに訳がわからない犯人はナイフを落とし、つんのめって四つん這いになった。
その時、しゃがみこんでいた真澄の手を取り
僕の後ろに隠した。
「今だ!」
「押さえろ!」
うわーっという声とともに、あっという間に犯人は捕まった。
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