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理一郎が入社時に美樹本に振られたことは、ベテラン社員ならだれでも知っていた。聖良が理一郎に片思いをしていたころ、それらの社員が「砂尾さん、美樹本さんに未練あるのか、女を寄せ付けないんだよね」と、頼みもしないのに忠告してくれた。
夫が美樹本の理不尽な要求を渋々と引き受けたのは、彼女が忘れられないから? 彼女に迫られれば、理一郎は拒めないのでは? と聖良は悩んでいた。
「セラちゃんが心配するようなことは、なにもないよ。あの夜、俺は……」
理一郎は若い妻の懇願に負け、かいつまんで美樹本とのやり取りを話した。
「……わかった。それで引継ぎや出世のために、あのババアとエッチしてないよね?」
「そんなわけないだろ! 俺はとにかく引継ぎしたかっただけだよ。そうして仕事を減らさないと、早く帰ってセラちゃんのご飯、作れないだろ?」
聖良は、話し込んで冷めてしまったキノコの味噌汁をすすった。冷めてもだしが効いておいしい。
「あたし仕事は好きだけど、出世なんて考えてないから、変な心配しないで」
「えー! 俺、稟議書にセラちゃんのサインもらうの、夢なんだよ」
「夫さんがこれって、情けないなあ。これじゃリッチ君、美樹本さんが仕方なく日比野さんと結婚したって、信じてるよね」
理一郎はふいっと目を反らした。
「そ、それは……俺にはどうしようもないだろ」
「美樹本さん、派遣で受付してたとき、日比野さんにかなり食いついてたらしいよ。昔、日比野さんは、イケメン課長でモテてたんだって」
理一郎は、ぬるくなったお茶で口をすすいだ。
「俺はずっと日比野さんに憧れてたよ。だから、美樹本さんと日比野さんには幸せになってほしいと、今でも思っている」
「わかった、あたしはリッチ君を信じるよ……あ、でも、カメラが壊れてなかったら、リッチ君、ババアとエッチしたんじゃない?」
聖良は、空になった皿を重ねた。理一郎は、立ち上がって皿を片付け始める。
「そんなわけないだろ。逃げるのに苦労しただろうが……今こうしていられるのは、全部、エルちゃんのおかげだね」
理一郎は、未だに、故障したサーマルカメラを『エルちゃん』と呼んでいた。
一緒に食器を洗いながら、聖良は『エルちゃん』を導入したときのことを思い出す。
理一郎と仕事を始めて間もなく、彼女は、憧れや尊敬よりもっと強い、原始的な感情に支配されるようになった。
父親とさほど変わらない世代の人間にこんな気持ちを持ってしまう、自分自身に驚いた。
二人きりの狭い機械室で、なけなしの女子力を駆使して迫り、オフィスラブコミックみたいに突然押し倒されることを妄想し、スキのない下着を着けた。
が、彼は会社の優しい先輩であり続けた。自分が女であることが恨めしくなる。
あの夜も、聖良は、理一郎と機械室に籠っていた。彼女の気持ちを知っている大山はわざとらしく「じゃ、お先に」と帰る。
サーマルカメラのアプリを、理一郎と相談しながらインストールを始める。
彼は、モニターを見つめながら「この子はこれから大変だけど、がんばってほしいな」とささやいた。
彼から優しいささやきとまなざしを注がれるカメラシステムに、聖良は強烈に嫉妬した。
(あたし機械になりたい。こんな苦しい気持ちとは関係ない機械がうらやましい)
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