🐾🐾🐾につい🐾の文献🐾

その日、空が落ちてきた。
否、我々が空だと思っていたものは、青と白の色で精巧に空を表現した壁、要するに天井のようなものであった。

その日、『空』にまるで卵の殻が割れるようにヒビが入り、その『空』の巨大な破片は地上に降り注いだ。幸い、人のいない島の上であったため、人的被害は生まれなかった。

世界中の政府が、その島に軍と研究者を送り込んだ。
『空』に空いた穴の向こう側には、何か、巨大な生物とみられる物体がいたからだ。
目も口も、どこにあるのか判別不可能。ゴムのようなつるつるとした身体を持ち、おそらく顔と思われる部分をもたげてこちらを見下ろしていた。
一体だけでも人類にとっては深刻な脅威となり得るというのに、恐るべきことにそれは複数体いた。

しかし、彼らは――一般的な人類の感覚からするとだが――おろおろと戸惑っているように見えた。
気の早い国が彼らに対してミサイルを放ったが、どういうわけか、『空』の穴の向こう側には一発たりとも届かなかった。

それから、世界中から集まった軍隊が島を包囲し、あらゆる分野の学者、研究者たちが『空』の穴の向こう側を注視する日々が始まった。

最初の接触から数日は特に何事もなく、互いに息を潜め、互いを観察していた。

状況が動いたのは十日後のことだった。一人の若い研究者が、何か反応があるかもしれないと、巨大生物に手を振った。

すると、巨大生物たちは酷く混乱した。

手を振った研究者は当時のことをこう語る。

それはまるで――まるで、世界的なスターを目の前にしたファンのような大混乱であったと。

その翌日。巨大生物たちはこちらに向けて、そろそろと手を振り返した。正確には、つるりとした身体に手と思われる触手を生やし、左右に振った。
それを見た研究者たちは、雄たけびをあげて喜んだ。

巨大生物からの反応があったことに希望を見出した研究者たちは、実験的に、彼らの前で握手をして見せた。そして、同じことをさせようと彼らに向けて手を伸ばした。

またしても『空』の穴の向こうでは大混乱が起きた。
誰が差し伸べられた手を握るのか。それを争っているように見えた。
彼らは明らかに、こちらが先ほど見せたことをさせようとしたのだということを理解していた。握手することの意味すらも理解しているように思われた。
しかし、結局のところ握手の誘いを受ける者はおらず、空振りに終わった。

まだまだ不明なことは多かったが、一先ず彼らは逼迫した脅威ではないと判断された。

研究者たちはそれから、彼らとあらゆる方法でコミュニケーションを試みた。

まず、ありとあらゆる言語で彼らに挨拶をした。彼らは無反応だったが、静かに耳を傾けているようにも見えた。
繰り返しているうちに、まるで応えるように触手をひと振りするようになった。現状、人類に観測できる彼ら独自の言語はないのだと仮定された。

次に、人類と地上の生物について表した巨大な絵図いくつか見せた。巨大生物たちは穴が真っ黒になる程に集まり、じっとそれらを見つめていた。

スポーツ、格闘技、ありとあらゆる芸術品を彼らに見せた。音楽に合わせて集団で踊って見せた時は、感極まったように顔のような部分を触手で覆って蹲る個体も現れた。
彼らに確かに感情らしきものがあることが観測された、記念すべき日だった。

ある日のことだ。
巨大生物の頭頂部と思われる部分に、一対の三角形のツノ、もしくは獣の耳のような物体が生えた。
耳かツノか。研究者たちの間で意見が割れたが、その三角形の物体がしきりに向きを変え、それがまるで音を拾うような仕草に見えたので、結局は耳と仮定された。

巨大生物が地上に降りたのは、耳が生えた日からおよそ二日後のことだった。

まず始めに『空』の穴から伸びた触手のような器官が地面に着地し、その後でずるりずるりと本体が穴から這いずりだして、そして、そのまま落っこちた。その衝撃は、想定よりも遥かに軽かった。

巨大生物が、むくりと起き上がる。緊張の一瞬だったが、頭頂部に三角形の耳を生やした巨大生物は、落ちた地点に大人しく留まっていた。

とうとうこちら側へとやってきた巨大生物は、五階建てのビル程の体長で、楕円形に丸く、全身は黒いゴムのような質感であった。耳が生えたことにより、頭部が判別できるようになっていた。同時に、獣でいうところの尻尾にあたる位置から触手が生えていることが分かった。

安全とわかったためか、続々と穴の向こうにいた巨大生物たちは地上に落ちてきた。しかし、次第に陸地は埋まっていき、とうとう端にいた個体の触手が海の水に触れた。
すると、その水に触れた個体は海水に浸かった触手をしきりに振って、嫌がっているような反応を見せた。どうやら彼らは水、あるいは海水を苦手とするらしい。
巨大生物たちはそれ以上落ちては来なかったが、研究者たちのいる場所もなくなってしまったので、研究者たちは観測船へと戻り交代で仮眠をとった。

次の日。観測船から遠方に見える島に、巨大生物の姿はなかった。『空』に空いた穴の向こうにも、巨大生物は見えなかった。

慌てて上陸した研究者たちが見たものは、大人の腕に納まる程度の大きさとなった巨大生物たちだった。

身体が縮んだどころか、彼らの身体つきはまた変化を遂げていた。
頭部は小さくなり、そこには頭部の大きさと比較すると大きな、目のような器官が出来ていた。それだけではなく、口や鼻のような部分まで出来上がっていた。巨大生物だった生き物たちは、身につけられたばかりの小さな鼻をひくひくとさせ、しきりに辺りの匂いを嗅いでいた。
さらに、獣に似た脚が四本生え、ずんぐりと丸かった身体はしなやかな曲線を描いていた。

研究者たちは記録のため、たくさんの写真を撮った。

その七日後。彼らの身体はふわふわとした柔らかな体毛に覆われていた。体毛の色や模様は個体によって差があり、これにより、個体判別が容易となった。

研究者たちはさらなる記録のために、写真を大量に撮った。

次の日、巨大生物だったふわふわの生き物たちは人類の耳に「ニャア」と聞こえる言語を用い、我々とのコミュニケーションを図ったが、どれも人類の有する言語とは違い、実りある交流とまではいかなかった。

巨大生物の急速な変化と共に人類の警戒も解かれ、研究者たちはそれぞれの国に小さくなった巨大生物たちを連れ帰った。

――連れ帰ったが、彼らの生態について大したことはわからなかった。

例えば、非常に気まぐれであること。こちらの都合を考えず甘えに来たかと思えば、そっけなくそっぽを向いてしまうこともある。
また、睡眠時間が長く、暇さえあれば眠っていること。身体を丸めて眠る様は、人間たちの庇護欲を刺激した。
ホットカーペットや人間の膝の上、日の当たる場所など、温かい場所を好むこと。
同時に、箱や袋、あるいは隙間など、狭いところを好み、どこにでも収まろうとすること。
そして、そういった場所にいるときに、ゴロゴロと喉を鳴らすこと。

わかったのはそんなことばかりで、彼らがどういうつもりでこちら側に来たのかは未だに解明できていない。

しかし、かつて脅威的巨大生物だったふわふわの友人たちは、いつしか一般の人間たちに広く受け入れられ、家族として迎え入れられるようになった。

人々は親しみを込めてそのふわふわした生き物を『ネコ』と呼んだ。

何故人類が唐突に彼らを『ネコ』と呼ぶことになったのか。その理由について、誰も気にしなかった。

思えばそれが始まりだったのかもしれない。

『ネコ』は、人類の良き友となった。
『ネコ』は、傷ついた人類を良く癒した。
『ネコ』は、いかなるときも人類と共にあった。

始めは一家の一員として、愛玩するために迎えられた『ネコ』たちだったが、それだけでは飽き足らず、人間たちはいつしか、世界中でありとあらゆる機関の長に『ネコ』を就任させた。
勿論彼らが人間の仕事をするわけではない。そのほとんどが肩書だけだ。彼らの前足は人間の仕事に向いていないのだから。
長となった彼らの代わりに、人間が彼らの仕事を担った。

もうすでに、そうなっているのかもしれないと、多くの学者が気が付いている。しかし、誰もその事を口にしない。何故なら、誰もがそれをポジティブに捉えているからだ。

誰もあの日、『空』が落ちてきた日の恐怖を覚えていないのだ。愛くるしい『ネコ』に夢中になるあまり。

しかし、私はあの日のことを覚えている。
だからこそ、ここに記そう。彼らの企みについてを。

あの日、落ちてきた『空』。
落ちてきた巨大生物『ネコ』。
彼らは、我々人類を――

この先はおびただしい数の肉球の判によって読むことができない。

私はこの文献をくしゃくしゃに丸め、国防長官のデスクに座る『ネコ』に向けてひょいと放った。すると『ネコ』はそれを前足で弾き、転がったそれを追い回し、ついには燃え盛る暖炉にくべてしまった。