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 誰かの容態が急変したようで、巡回から戻って来たナース数名が慌しく動き始めている。そして、寝間着姿の老人が戸惑った表情で、その様子を見つめていた。  今なら判る。  あの老人も俺と同じく、瀕死の状態で体から抜け出した霊なのだろう。意外と誰もが一度は通る道なのかもしれない。   「ねぇ、もう一度、新生児ICUへ行かない? この辺、騒がしくなりそう」 「ICUへ行って、どうするんだ?」 「あの子に会いに行く。今の私たちなら、会える」  そう言って、真奈美はナースステーションの前を通り抜け、立ち尽くしたままの老人にちらりと哀しげな視線を向けて、ICUがある病棟の方へ進み始めた。  反対側から来る看護師は、ス~ッと彼女の半透明の体をすり抜ける。    避ける必要はない。    俺達にもう実体は無いのだから。    そして、その事実は同時に、如何なる堅牢なドアも行く手を阻む障害にならない事を意味していた。    俺がさっきまで、その前で佇んでいた新生児ICUの分厚い鉄扉へ真奈美は躊躇う事無く進み出し、ス~ッと溶け込むように室内へ消える。    先程、俺がICUの中は判らないと言った時、彼女が怪訝そうな顔をしていたのは、この為だったのだろう。    実際、真奈美の後に続いて行ったら、俺の体もあっさり鉄扉をすり抜けた。要するに入ろうと思えば、何時だって中に入れていたのだ。            ICUの奥は手術室と繋がっており、497グラムの肉体と不釣り合いなサイズの手術台に、俺の子は横たえられていた。    腹が開かれ、まだ若い女の医師が額に汗を浮べて処置をしている最中だ。    医師達の体をすり抜け、すぐ側まで近付いた真奈美は、子供を見るなり小さな悲鳴を上げた。   「どうした? 敗血症とか言う病気が、悪くなっているのか?」  俺が訊ねると、発作を起こした症状の処置は終った様だと真奈美は言う。でも、その処置の間に他の症状が見つかってしまったらしい。 「小腸の一部が壊死しているの。だから、その部分を取り除いてる」  赤子の腹を覗いてみると、確かに細長いチューブに似た器官を医師が切り取る所だった。そして短くなった腸を丁寧に修復し、再び繋ぎ合せていく。 「腸なんか取っちまったら、猶更、ヤバいんじゃないのか?」  手術への立ち会い経験も豊富なベテランナースである真奈美は、その時も強いて冷静に振舞おうとした。 「短い部分なら、子供の体は再生力が強いから大丈夫……でも……」 「でも、何だよ?」 「バイタルが落ちてるみたい」 「……バイタル?」 「ヘマトクリット値も、酸素飽和度も……このままじゃ、あの子」 「オイ、頼むから日本語で話せ」 「危ないの! 死にそうなの! こんな……こんなに必死で生きようとしているのに」  押えこんで来た感情が堰を切り、真奈美は両手で顔を覆った。間も無く、指の間から啜り泣く声が漏れる。 「……なぁ、大声で泣けば? どうせ誰にも聞こえないんだから」 「病院の人が気付かなくても、母親の怯える気持ち、この子の心に届くかもしれない」 「麻酔が効いてるだろうし、第一、こんなちっちゃい頭で、辛いと感じるほど、脳が育ってないだろうよ」 「そんな事無い! この子、闘ってる。私、感じる」  真奈美の叫びが手術室に響いた。  でも、それが聞こえるのは、所詮、俺達の間だけだ。    幽霊と幽霊もどきが立ちあっている事など何の影響も及ぼす事無く、手術は終ろうとしていた。    腹が縫合され、ホッと溜息をつく若い医師の額の汗を、傍らのナースが拭う。    何とか命を取り留めた未熟児は身動き一つせず、医師が退室するまでの数分間、真奈美の啜り泣きは止まらなかった。  俺には、彼女が落ち着くまで、側に立っている事しかできない。 「……生き延びる可能性が僅かでも、ただ苦しい時間を積み重ねるだけだとしても、私、この子に生きていて欲しい」  涙を拭い、真奈美がポツリと呟く。 「それって、親のエゴなのかな?」  真奈美の視線を受け、俺は困って首を傾げた。  父親の自覚も、子供への愛情も感じられないままの俺には難し過ぎる質問だ。   「この子は、私が三十一年生きてきた、たった一つの命の証し。友達は殆どいない。誇れる程の仕事もしてない。この子が死んだら、私、この世界に残せる物が何も無くなってしまう」  真奈美が顔を上げ、俺の方を見つめた。  眼差しが、あなたも同じでしょ、と言っている。  言われてみりゃ、そう、その通り。  書いた芝居がガラクタで、誰の心にも残って無い事なんざ百も承知している。  外科病棟で寝ている俺の心臓が止まったら、それでセコい人生は終り。何のためにこの世に生れたのか、子供の頃、何度も考えたけど、答えは見つからないままだ。    多分、意味なんてないのだろう。    受け継がれるべき命も、今、目の前で嵐の前の灯みたいに弱々しく揺らいでいる。 「……愛情なんて、所詮、突き詰めれば全部がエゴじゃねぇの?」  動揺を隠そうと、俺はわざと軽口を叩いて、未熟児の方へ手を伸ばした。  俺の指が針金みたいな指先に近付く瞬間、少しだけ未熟児は腕を伸ばし、何かを握る仕草をする。  多分、そこに意思は無い。    単なる条件反射で、実体を持たない俺達を感じられる筈も無い。でも、そこには確かに意思を感じた。    生きる為に闘う意思。    真奈美が言っていた通りだ。    理屈じゃなく、親にはわかる。伝わる。子供の気持ちが……生きようと闘う本能の、ちっぽけな可能性って奴が……。    気がつくと俺の頬にも涙が流れていた。    悪いな、ボウズ……お前がそんな体で産まれ、痛い思いをしてるのは俺のせいだ。    恨んでいい、俺はどうせ地獄に落ちる。しょ~もない人生をお前の母親のせいにして、二人一緒に傷つけた。    挙句、真奈美は死んだ。俺が殺して、殺された。    バカだよなぁ。舞台の演技でもねぇのに、泣いちまうなんて何年ぶりだろう。もしかしたら、他人の痛みを感じて泣くのは、生れて初めての経験かもしれない。   「ねぇ、あなたに一つ、頼みがある」  俺の涙に気付き、真奈美も手を伸ばして、赤子の指先に触れた。  又、ちっちゃい指が反応する。 「あなたも生きるのを諦めないで」  予想外の言葉に、俺は何と答えたら良いか分らなかった。 「外科病棟でナースの言葉を聞いた。あなたには、まだ助かる可能性があるの。鍵を握るのは、本人の精神力だと言っていた」 「……つまり、もう一度、あの穴だらけの体に戻れって言うのか?」  真奈美は小さく頷いた。 「何の為に?」 「この子の延命治療を行うかどうか、決断しなければならない時の為」 「え?」 「もし、この子が生きる為に戦って、戦って、戦いぬいて、最後に生か、死かを選ぶ決断をしなければならないのなら……それを決めるのは祖父や祖母でなく、勿論、お医者さんでも無く、親であって欲しいの」  真奈美はもう泣いてはいなかった。  強い眼差しで、俺を見つめ、言葉を繋ぐ。   「力尽きる命を愛し、一番哀しんであげられる人間に、それを決めて欲しいと思う。私達、親としちゃ最悪だったけど、せめてそれ位は……」  そう語る真奈美の体が、急速に透き通って行く。  おそらく天国か、地獄か、次の段階へ進む時が近付いているのだろう。   「約束するよ、何とか生き抜けたら、俺、親になる。自信ないけど、オヤジとして生きてみようと思う」 「うん」 「それが、償いになるかな、お前に対しても?」  答えは返ってこない。  そりゃそうだ。許せる訳、無ぇよな。でも……消えゆく瞬間、真奈美は、あいつなりに俺を許そうとしてくれたんだと思う。  ぎこちなく微笑み、次に子供を見下した。  楕円形の頭の、開く筈の無い瞼が開いて、母に頬笑みを返したと見えたのは、多分、俺の錯覚だろう。 「あなたを刺しちゃったから、私の行き先も地獄ね、きっと。向うであなたを待ってる」 「ああ、地獄で会おう」  二人が初めて出会った日の、あの屈託ない笑顔を浮べ、真奈美の霊魂……その21.3グラムの質量が、この世から永遠に消えた。  俺も立上り、「また来る」と我が子に告げて、外科病棟へ歩き出す。    さ~て、生きなきゃ。    俺も生き返らなきゃ、な。    臨死体験の最中に起きた事は殆どの場合、全く憶えていないと言うが、きっと俺は忘れない。    忘れる訳が無い。    そんな変な自信があった。
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