1 ― 雪を欺いて【6.5 更新】

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「ちょっとごめん」  ふいに躰が解放され、意識が目の前の現実へ向く。邑木さんはサイドテーブルで震えていたスマホを手に取り、静かにベッドルームを出ていった。  額を伝う汗を拭おうとしたけれど、それすらもできないくらい躰は芯を失っていた。どうにか肩で息をする。心臓が、はやい。  電話をかけにいったのか、ドア越しにうっすらと低い声が聞こえてきた。  今日はこのまま仕事に行くから。夜はそっちに帰ると思う。うん、ああ、そう。わかった。式のことは、とくに要望はないよ。きみのおとうさんによろしく伝えておいて――。  瞼が、はっと開いた。  もしかしたら、わたしは彼女だか奥さんだかのいる(ひと)と寝てしまったのかもしれない。それも、誘ったのはわたしの方。  途端に熱がさっと引き、胃液が逆流した。  灼けるような嫌悪感。冷え固まっていく躰。慰謝料、裁判、弁護士。週刊紙の見出しに並ぶような、自分には縁がないと思っていた言葉がぐるぐると頭を回る。  訴えられたら最低でも三百万はかかる、とテレビで聞いたような気がする。社会人三年目にして会社を辞めたわたしに、当然そんな貯金はない。  電話を終えた邑木さんは、こっちの気なんて知らずに涼しい顔をして戻ってきた。
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