1 ― 雪を欺いて【6.5 更新】

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「婚約者がいるとはいっても、自由にやってるよ。彼女とのマンションに毎日帰らないといけないわけでもないし」 「彼女とのマンション?」 「ああ。ここから車で三十分くらいかな」 「それならここは」  つい、訊いてしまった。さっさと帰るつもりだったのに、気がつけば自ら話を広げてしまっている。 「ここは大学時代から住んでるマンション。仕事に行くにはここからのほうが便利だし、長く住んでるから愛着もあって。手放す気にはなれないな」  意外だった。愛着という言葉も、手放す気にはなれないという表現も、そういうことを言う(ひと)だとは思っていなかった。 「ほかに訊きたいことは?」 「……ないです」  どこか満足そうな邑木さんに、わたしは仏頂面で返した。それでもその表情は崩れるどころか、笑みを増すばかりだった。  帰ろう。いますぐ帰ろう。  シャツを羽織り、抜け殻のようになっていたスキニージーンズの皺をざっくりと伸ばした。
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