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「たいしたことないよ」
「たいしたことないって……」
鏡に映る母の眉が、たちまち八の字に下がる。
「ほんとうに、たいしたことないよ」
「たいしたことないわけないじゃない」
「だから、たいしたことないってば」
「由紀っ」
ぴしゃりと言っていまにも泣き出しそうな顔をする母に、こっちが泣きたくなる。
とっくに成人した娘に声を荒げて、事態が好転するとでも思っているのだろうか。これでもかと言わんばかりに感情を露わにする母は、売れない舞台役者顔負けだ。
「お母さあーん、早く来てよー。なんかオプションがいろいろあって、ひとりじゃ選べなあーい」
ふいに、リビングからゴム鞠のような声が弾んできた。母はすぐさま「はいはい」とリビングに向かい、糸が切れたように空気が軽くなった。
ああ、解放された。
蛇口を締めて肩を落とすと、みるみる躰が萎んでいくのを感じた。
結婚と引っ越し、それに出産を控えた妹は、フォトウェディングや新居のことで頭がいっぱいだ。これまで以上に母にべったりとくっつき、困っているような顔をしてすでに答えの決まっている選択にたっぷりと時間をかける。
親戚からは「結婚も子どもも、どっちも妹に先を越されちゃったね」と揶揄された。
彼らはわたしにどんなリアクションを求めているのだろう。自虐的な言葉をぺらぺら口走り、おどけて笑顔を振り撒けば満足するのだろうか。
まったく、いい趣味をしてる。
そしてそんなやり取りにこっそりと微笑む妹は、もっといい趣味をしてる。
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