3人が本棚に入れています
本棚に追加
紗莉那は僕にとって最大の黒歴史だ。彼女とはかつて婚約寸前までいった仲なのだ。もしも時間を巻き戻せるのなら、間違いなく彼女との出会いの前を希望する。
あれは会社の前だった。苔生が停めた車に駆け寄ろうとしたところへ、通りかかった彼女とぶつかった。彼女が持っていたカフェラテをスーツに盛大にぶちまけられて、僕は着替えに戻る羽目になった――のみならず、だ。
――どこ見て歩いてんのよっ!
こっちの台詞を完全に奪われた。世の中、けっこうな割合で言った者勝ちである。そこに女という要素が加わると、更に勝率が増す。
――どうしてくれんのっ、わたしのスーツ!
見れば、彼女が来ていたスーツにも、ほんの少しだけ、ハンカチで拭いておけば大丈夫だろうという程度にはラテが散っていた。当たり屋みたいな女――それが彼女に対する第一印象だ。
あの時点で、苔生と紗莉那が知り合いだったはずはない。何せ、我が家から家宝とも言えるルビーを盗み出そうとした盗賊こそが紗莉那であり、その企てを察知して未然に防止できたのは苔生のおかげだったのだから。掠取に失敗した紗莉那は姿を消し、つい数分前まで行方知れずだった。なのに、その後も僕の知らないところで苔生父娘と紗莉那は繋がっていたということなのか。
信じ難いことではあるが、それを補強する事実がある。先ほど、紗莉那がこの車に飛び乗ってきたときのことだ。それまでかかっていたドアのロックを、苔生が急ブレーキを踏みながらも絶妙なタイミングで解除したことに、僕は気がついていた。苔生にはいろいろと確認する必要があるようだ。
「それにしても、さっきのは何だ。危ないじゃないか」
紗莉那はちらっとこちらに視線を向けただけで、すぐにそっぽを向いて反対側の窓に目をやった。
「ちょっとした仕事上のトラブルがあっただけよ」
「ちょっとした? 相変わらずおまえの物差しはどうなっているんだ。どういう生き方をしてたら、ちょっとしたトラブルであんなスタントみたいな真似をする羽目になるんだよ。危うく轢き殺すところだったぞ。おまえがどうなろうと知ったことじゃないが、苔生を犯罪者にしないでくれ」
「煩い」
紗莉那はそう言った瞬間だけ、こっちを向いた。あっかんべーをされたような気分になった。
「あなたん家のルビーを貰い損ねちゃってから、ツイてないの。あなたみたいなのと関わっちゃったせいね」
出会いから全て、この女の計略だった。わざとぶつかってラテをぶちまけ、きっかけを作った。最初は当たり屋のごとき態度で、強引に距離を詰めてきたかと思うと、あるとき不意に塔の上のお姫さまのようにすり寄ってきたのだ。我が家に伝わるルビーを盗み出す、そのために。
「このまま警察に突き出してやってもいいんだぞ」
「やれるもんならやってみなさいよ。あなたがまんまとハニートラップに引っ掛かって、もう少しで先祖代々のルビーを盗まれるところだったってこと、世界中に知らしめてやるから。あなたの寝顔の写真と一緒に広めてやるわ。ああ、そうだ。ついでに専務一派とやらにも、詳しいことを教えてあげなくちゃ」
「こ、苔生っ、一番近い警察署まで行ってくれ」
「苔生さん、わたし、富士山が見たくなっちゃった」
「かしこまりました」
苔生がどちらに向かって答えたのか。それはもちろん僕であるはずだし、そうであるべきなのだが、慌てなくても答えは次の高速の出口で分かる。
苔生がスピードを上げて追い越し車線に入ったと思ったら、何故か紗莉那がまたシートに身体を横たえて、僕の膝に頭を載せてきた。そして、じっと僕の目を見つめたまま、ほとんど唇の動きだけで言う。
――ねぇ、わたしのこと、捜してた?
その真っ赤な唇は、とてつもない引力を秘めている。僕はミラー越し、苔生の視線を気にしながらも、身体を屈めて、紗莉那に顔を近づけた。
プロローグ 終
最初のコメントを投稿しよう!