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プロローグ
「来月、日奈乃が二十歳の誕生日を迎えるんですよ」
運転手の苔生が、信号待ちのタイミングでそんなことを言い始めた。
後部座席で株価をチェックしていた僕は、視線を上げて運転席に目をやる。
教習所のお手本のような姿勢でハンドルを握る苔生は、五十を過ぎているはずの年齢を感じさせない。身長百八十を超え、筋肉の鎧を纏った堂々たる体躯。張り艶しかない、日に焼けた肌。長い髪を後頭部で一本に結った髪型が相まって、上場企業の社長車の運転手というよりも用心棒のような風貌だ。
日奈乃の誕生日?
胸騒ぎを覚えた僕は、手元のiPadをスリープした。
日奈乃は苔生の娘だ。そういえば、確か父娘で誕生日が近いはず――生まれ月は違うけど、星座は同じとか何とか。また苔生の誕生日をスルーしてしまっていたか。
「苔生の誕生日って、いつだったっけ?」
「私は、つい先日、五十三になりました。あ、いえ、誕生日のお祝いなど、お気づかいは無用でございます。先代は、ああ見えて、そういったことにはマメな方でらっしゃいましたので、私のような者の誕生日にもそれはそれは豪勢な、あ、いえ、何でもございません」
やっぱりだ。記憶力には自信があるのだが、何故か誕生日やら記念日などは覚えるのが苦手だ。歴代の彼女からも、よく怒られた。
苔生は、今では僕個人の運転手だけれど、亡父は彼を自分の会社の社員として雇っていた。そのくせ、ゴルフだボクシング観戦だ、愛人のマンションだ不倫旅行だと、公私の私にひどく偏重した使い方をしていた。父が苔生に手厚かったのは、きっと口止め料も込みだったからだ。法人から給料を払っておいて私物化するのはよろしくない。そう進言したこともあったのだけれど、僕の声に耳を貸すような父ではない。案の定、専務一派から背任で告発されそうになったものの、逆に専務の弱みを握って返り討ちにしたという強者だ。僕にも父の血が半分流れていると思えば、心強い。母はさらに心強い武勇伝の持ち主だけれど、その話はまた今度。
そんな父が呆気なく天国へ旅立って(愛人の腹の上でなかったのは不幸中の幸いだった)、後を継いだ僕がまずやったのは、苔生を僕個人で雇い直すことだった。それは専務一派残党による報復を防ぐためというよりも、純粋に彼を長くそばに置いておきたいという思いからだ。彼には単なる運転手以上の価値がある。父が専務の弱みを握ることができたのも苔生の功績だと聞いているし、かつて、我が家に伝わる家宝とも言うべきルビーを女盗賊から守ることができたのも、彼のおかげだった。
――助けていただいたのは、こちらの方です。道場の経営が行き詰ったとき、支えてくださったのがお父上だったのです。
酒が入ると、苔生はよくそんな話をした。苔生家は、他では聞いたこともない武道の苔生流という流派の創始者一族なのだそうだ。彼は師範代であり、実は僕も幼い頃から門下生の一人だ。その道場が経営難で閉鎖の危機に追い込まれたとき、資金を援助して窮状から救ったのが父だった。
――以来、道場の方は日奈乃や弟子たちに任せ、私は残りの人生をお父上に捧げる決意をしたのです。
その後、道場の経営は順調に回復した。最近では、日奈乃が考案した女性向けの護身術やエクササイズの教室も盛況だと聞く。
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