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「悪かったよ、誕生日に気づかなくて。何か欲しいものがあれば、」
そこで僕の言葉は遮られた。
「とんでもございません。私のような者にそんなお気づかいなど、あ、いや、そうですか。そこまでおっしゃっていただけるのでしたら、お言葉に甘えまして」
苔生は、誰に対しても執事の如く礼儀正しい。もちろん僕に対しても、礼儀正しくはある。あるのだが、どうも他の人間に対してのそれとは違うように感じられてならない。彼には、彼が父の運転手になる前、僕がまだ幼い頃から道場で世話になっていた。休みの日には留守がちな両親に代わってよく遊んでももらっていた。だから、互いに心安い相手であることは確かなのだが。
「不躾なお願いで恐縮なのですが、実は日奈乃もちょうど二十歳の誕生日が近うございまして」
それはさっき聞いた。
「何が欲しいのか、尋ねましたところ、ディズニーに行きたいと申しまして」
「ああ、なるほど。わかったよ。じゃあ、二人にパークのチケットとホテルの宿泊をプレゼントするよ。もちろんディナーもつけて」
サプライズで、人気キャラクター総出でバースデーケーキを運んでもらい、歌もうたってもらおう。
「ありがとうございます。……実は、その、何と申しますか、その、大変厚かましいお願いだとは重々承知いたしておるのですが、その、」
苔生にしては珍しく歯切れが悪い。普段の彼は、温厚ながらも確固とした己を持っている。相手が誰であれ、臆することなく、意見をはっきりと述べる。愛人の件でも、よく父を叱ってくれたと聞いている。母をもっと大切にしろと。僕がもっと若くてやんちゃ盛りだった頃には、父親のように、いや、いい加減な父親の代わりに、よく叱ってくれたものだ。約束は守れとか、女の子は大切にしろとか、煙草は二十歳になったらやめておけとか。そんなふうに叱ってくれるのは、苔生だけだった。だから、僕は苔生には感謝も尊敬もしている。けれど、今の態度はいかにも苔生らしくなかった。
「何だよ、遠慮せずに言ってみてよ」
「では、恐れながら申し上げますが、その、できましたら、あの、行き帰りのチケットなども、その、」
「行き帰り?」
また胸がざわついた。
信号が青に変わり、車が動き始める。
「苔生の運転で行くんじゃないの?」
「はい。もちろん空港まではそうするつもりですが、さすがにフロリダまでは運転できませんもので」
浦安じゃないんだ……。
「……わかったよ。秘書の明日香に手配してもらうよう言っておくから、日程とか細かいことは明日香と相談してくれるかな」
「私が不在の間、社長にはご不便をおかけしますが」
「いいよいいよ。どうせ休暇も取ってもらわないといけないんだからさ。父娘で楽しんで来てよ」
「ありがとうございます」
苔生が、ルームミラー越しに軽く頭を下げた――次の瞬間だった。いつも完璧な運転技術で、まるで物理法則を無視したかの如くスムーズに車を操る苔生が、急ブレーキを踏んだ。
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