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タイヤが悲鳴を上げ、膝の上からiPadが飛んで転がった。
両腕で助手席を押すようにしてGに堪えながら身体を支える。スローモーションのような景色の中、誰かが車の前に飛び出して来たのが見えた。
その人物――女は、進行方向左手から、長い髪と深いスリットが入った黒いワンピースの裾を翻しながら、ボンネットの上を飛び越えるようにして右側に回り込んだ。かと思うと、あろうことか、この車の後部座席の扉を開いて飛び込んできたではないか。
女はシートに身体を横たえ、僕の膝の上に頭を載せた体勢で叫んだ。
「出してっ!」
車体がまだ完全には停まり切っていない状態で、苔生がアクセルを踏み込んだ。タイヤは再び悲鳴を上げながら、一瞬の空転を挟んでアスファルトに食いついた。今度は背もたれに強く押し付けられる。女の頭が、僕の腹を圧迫する。子どもの頃に乗ったきりのジェットコースターを思い出しながら、女を見た。
女は顔にかかった髪を掻き分けるようにしながら、こっちを見上げて微笑んだ。
「お、おまえっ」
急ハンドルが切られ、身体が大きく傾く。舌を噛みそうになりながら、女が落ちないよう、抱きかかえるようにして支えた。
苔生は、指示を受けたわけでもないのに、まるで追っ手を撒くかのように右へ左へと頻繁にルートを変える。僕はその間、言葉を発することを諦めて、女の身体を支え続けるしかなかった。
こっそりと目をやると、ワンピースの裾が乱れてスリットが広がり、見覚えのある白くて形の良い脚のほとんどが露わになっている。僕は、見ていたことを気取られないように、すぐに視線を反対側へ飛ばした。
車が高速に乗って走行が安定したところで、わざとらしい咳払いが聞こえた。女を見ると、膝の上からこちらを睨みつけている。
「何だよ」
「いつまで触ってんのよ」
ドスの効いた声でそう言われ、慌てて、まるで強盗にでも遭ったかのように両手を上げた。まあ、この女はほぼ強盗みたいなものだ。苔生が肩で笑っているような気がした。
上体を起こした女は、スカートの裾や髪を直してから、姿勢を正したかと思うと、軽く身を乗り出すようにして苔生の肩に手を置いた。そして、さっきとは打って変わって、まるで塔のてっぺんから助け出されたお姫さまのように愛らしい声を発した。
「苔生さん、ありがとう。助かりました」
「どういたしまして、紗莉那さん。お怪我はありませんか」
「ありがとう。大丈夫。苔生さんもお元気そうで何よりです。元気じゃなきゃこんな馬鹿の運転手なんてやってられませんわね」
こんな馬鹿のアクセントのところで、紗莉那は実に冷たい視線を投げて寄越した。
「社長には大変良くしていただいております」
その言葉は紗莉那に無視された。
「そうそう。日奈乃ちゃんが、ディズニー楽しみにしてるって言ってましたよ。フロリダなんて羨ましいわ」
「私が娘に大きな顔ができるのも、すべて社長のおかげでございます」
何だ、この会話は⁈ かつて、紗莉那も苔生家の道場に通っていたことは知っている。そこで日奈乃とも面識があった。だが、それもほんの一時期のことに過ぎない。今でも紗莉那が苔生家と繋がっているはずがない。なのに、苔生も何ら疑問に感じていない様子なのはどういうことだ?
その疑問を紗莉那にぶつけてみたが、軽くいなされた。
「内緒」
紗莉那は不敵に笑う。苔生は知らんぷりしてハンドルを握っている。いったいどこから問い質し、何を言えばいいのか。もともと僕には紗莉那に言いたいことが山ほど、いや、山の一つや二つでは足りないほどにある。
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