第12章 東京ふたり暮らし・ver.だりあ

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第12章 東京ふたり暮らし・ver.だりあ

東京へ出てきてうゆちゃんと暮らすようになってからの日々は、わたしにとって今までの人生の中で一番心置きなく楽しい時間だったかもしれない。 とにかく物心ついてから、誰かの機嫌を損ねないように顔色を伺ってないときがない人生だったから。癖でついうゆちゃんの顔や雰囲気をちらちらと伺ってしまうけど、わたしがうっかりとんちきなことを言っても悠然と落ち着き払ってるばかりで態度の変わらない彼女にいつしか慣れて、こっちも次第にのびのびと言いたいことを言えるようになってきた。 彼女はわたしの言うことに対してほとんどにこりともしないけど、怒ったり苛々することもない。無表情なのは機嫌が悪いせいじゃなくそれがデフォルトだから、慣れると気分の波がなくて安定した人格である分かえって一緒に過ごしやすかった。 わたしの母親はもちろん、うゆちゃんと較べると陽くんだって時折思わぬところに地雷が埋まってたりして。思えば結構接しにくい相手だったんだな。と改めて実感する。後半だけじゃなく多分かなり最初の頃から。 陽くんは付き合い始める前からなんていうか、こっちの対応の正解が決まってるタイプの人で。返答や反応が向こうの求めてるものじゃないととあ、これは違うんだ。わたしは間違えた、とあえてこっちに悟らせるような素振りを見せるのが常だった。 口では絶対に説明しようとしないけど、正しい反応をするまで黙ってやり直しをさせる。さすがに高校で出会った初めの頃はそれほどきつく当たられはしなかったけど、わたし以外のグループの子たちや先生でさえもそんな風に扱われてたから。基本誰にでもあんな感じだったんだろう。 正式に付き合い始めてからは月日を追うごとにどんどん苛烈になっていった。最終的には恋人というよりも、あれはほとんど所有物だな。出来の悪いペットみたいな扱いだったと思う。『お仕置き』の方法も、どうやってわたしの心を折って抵抗できないよう頭から押し潰すか。みたいなやり方だったし…。 思い出しかけて慌てて首を振った。今はまだ、思い出したくない。もっと記憶が薄れて実感が遠くなったら、多少は思い返してもダメージ少なくなれるのかも。 せっかく無事に保護されて穏やかな生活を送ってるんだから、わざわざ心をざわつかせるようなことはやめよう。今は心と身体の回復に努めればいい。うゆちゃんにも越智くんにも、ずっとそう念押しされてる。 今日は夕方に越智くんもここに顔を出す予定。さて、夕飯は何にしようかな。 平日のお昼前。ぱかり、と小型の冷蔵庫の扉を開けて中をさっと点検する。見たものを頭に入れてすぐさま閉じた。電気代を無駄にしたくはない。 食費は二人で折半。越智くんは食事に招ばれるときは手土産として何かしら食材を持ってきてくれる。それがその日作るメニューに合致すればその場で使うし、合わなかったり量が多ければ翌日以降に回すこともある。その辺のルールは適当、ゆるゆるだ。 だけどそのくらいがちょうどいい。この暮らしがいつまでも続くわけでもないから。あまり細かいところまで神経質に詰めすぎなくても大丈夫。 やっぱり、買い物に行かないと駄目だな。 わたしは自分の背丈より低いごくちっちゃな冷蔵庫を見下ろし、誰も聞いてないのに思わずため息をついた。 今日はうゆちゃんは朝から大学。塾講師のバイトはないから、道場にちょっと寄ってから帰ると言い置いて出て行った。家に着くのは夕方だし、できたらその前に下拵えを済ませておきたい。 もう少し大きな冷蔵庫だったらもっと買い置きもできて、一日おきくらいにちょくちょくスーパーへ行かなくても大丈夫になるんだけどなぁ…。でもまあいっか。どうせ、自分のお昼も何か用意しなきゃならないし。 最近は近くのコンビニやスーパーくらいなら昼間一人ででも出かけられるようになった。何かあったらためらわずスイッチを入れろ、と言い含められて防犯ブザーを持たされてるけどさすがにそれを使うような局面に居合わせたことはない。一応誰かに跡をつけられてないか、ときどき周りに注意を払うようにと常々注意もされててそれを守ってはいるけど。 今のところ陽くんや堂島はもちろん、不審な動きをする人物を近所で見かけたことはない。わたしをあの土地から連れ出したのがうゆちゃんであることは向こうも承知してるはず。本気で居所を探せばこのアパートまで辿り着くのは不可能じゃない。 逃げるように地元を出てきてもう一ヵ月になる。本当にわたしを連れ戻す気があるなら彼はもうとっくに動いてるんじゃないかな。せっかちというか、思い立ったら即手を下さずにいられないたちの人だったから。 反抗したり逆らってくる人間を蛇蝎の如くに嫌って絶対に赦しはしないけど。根本的に誰か特定の相手に対してすごく執着する性格でもないから、視界に入って目障りでさえなければ案外無造作に忘れてしまいそうにも思える。 わたしなんか彼にとってはその程度の存在だったのかって思えばさすがに何とも切ない気持ちにはなるけど。多分それが現実、いなければいないで忘れてしまってまた代わりを探す。もともとそのくらいの重みでしかなかったんだろう。
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