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「…もしかして、お鍋とフライパンくらい買った方がいいかも。あ、別に。今からわたしがここに住まわせてもらうつもりで口出してるってわけじゃ。ないんだけど…」
ぺたんと座ったまま、簡易キッチンの方に目をやってしげしげと眺めたかと思うと小さく独りごちるだりあ。言ってる途中で気づいて慌ててごまかしてへどもどしてる。わたしは肩をすくめ、ため息混じりに応じた。
「別に、気にすることないよ。しばらく落ち着くまでここにいれば。わたしはわたしで好き勝手に生活するし。あんたは心と身体が落ち着くまでしっかり休んで普段の元気を取り戻せばいい。次の暮らしを立て直すまでどうしたって時間がかかるでしょ。無理に独り立ちしようとして焦って体調崩したら。元も子もないよ」
越智も傍らから心配そうに口を挟む。
「木村は今日、…てかもう昨日か。逃げてきたばっかなんだから、まだこの先の身の振り方とか考えられる状態じゃないだろ。そういうのはもっと後でいいよ。ゆっくり落ち着いて考えられるようになったら、こっちで何したいか決めたら?あ、てかずっと東京に住むかどうかもまだわかんないよな。さすがに当分は地元近くには寄らない方がいいとは思うけど…」
「お家の人には。もう少しあとで連絡する?」
そういえば。と話の流れで思い出してふと軽い気持ちで尋ねた。途端に俯いただりあの両肩が目に見えて強張ったのが伝わってきて、ここは今あまり突くべきじゃないポイントだったのかな。と気づいてちょっと後悔する。
だりあは一瞬の躊躇の末、やや力のない声で呟くように答えた。
「…どういう風に何を伝えるか。少し、考えてから…。多分いろいろ訊かれるし。でも全部そのままは。やっぱり言えないし…」
「木村んちのお父さんとお母さん。結構厳しいんだ?上京してこっちに住むとか、あんま許してくれなそうか?」
越智が気を遣ってか、いつにない優しい声で尋ねる。だりあは顔を上げずにぼそぼそと小声でそれに返した。
「うちはお父さんいないから。ずっとお母さんだけ。厳しいっていうか、うん。…まあ怒られるかも。阪口さんとこに迷惑かけて、とは。…言われるかな。やっぱし」
「何されたかはっきり説明しても?もしあんたが親には直に言いづらいなら。わたしが代わりに伝えてもいいよ」
娘があんなことされて、それでも我慢しろなんて理不尽なこと言う親なんているわけない。と考えてたわたしは甘かったのかもしれない。
彼女はますます深く縮こまって、消え入りそうな声を絞り出した。
「うー、ん。…うちのお母さん。もともと男の人に逆らうことになんかすごく、厳しいから。…あんたが言うこと聞かなかったからでしょとか。大人しく従っとけばいいのにって絶対言われる、と。思う…」
だりあがあいつに何されてたか。具体的な内容を知ったとしても?
そう重ねかけてやっと気づいた。この子が今言ってるのはそういう意味なんだ、つまり。
付き合ってる男が彼女に飽きて、あとは仲間うちで玩具にして壊れるまで遊ぼうと。もう用無しになったから、と手を挙げた友達の誰かか風俗に払い下げようとするような人間の屑相手でも。それが(地元の有力者の)男である限り、とにかく抵抗しないで従順に言われるままにしなさい、って。
斜向かいに座る越智と思わず目線が合う。その眼差しの中に滲んだ痛ましそうな色にようやくこの子の置かれてる境遇に想像が思い至った。
この件が始まってから初めて本気で背筋がぞっと総毛立った気がする。世の中には。そんな感覚の親も、いるんだ…。
そういえば、高校受験の話をしてるときに確かこの子は、女の子は偏差値高い学校行くとお嫁の貰い手なくなるからと平然と言い放ってたことがあったな。あれはやっぱり、母親からずっとそう言い聞かされて育ったのを。どこかおかしいとも思わずに無邪気にそのまま口にしてただけだったのか。
だりあはその台詞を口に出したことでかえって弾みがついたのか、一気に吐き出すようにさらに次の言葉を継いだ。
「うちのお母さんて。わたしの知ってるだけで何回か彼氏を替えてるんだけど、ここ数年付き合ってる人は。地元で陽くんちのお父さんの会社と取引してる中小企業の社長さんなの。だから彼と付き合ってるのを知られたときからずっと、くれぐれも素直に言うこと聞いて何でも従うようにって言われてる。…だから、ほんとのこと言ったら絶対怒ると思う。あんたが反抗したせいであの人の会社が駄目になったらどうすんの、って。…もしかしたら連れ戻しにくるかも。最悪」
「戻る必要ないよ、木村」
上体を乗り出して前のめりにだりあを励ます越智。わたしは脳を急いで巡らせ、少しでもましな表現を見つけようと努力した。
「…客観的に言って。お母さんの彼氏のためにあんたが犠牲になろうとするのは多分、言うほど意味がないと思う」
だりあの母親をここで口を極めて罵ってもしょうがない。言いたいことを言って感情的にすっきりして気が済むより、今は冷静になってこの子をきちんと説得することの方が大事だ。
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