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シャーーーーッ!! ここのトイレの水は、勢いがよすぎる。 石鹸をよく泡立ててしっかり手を洗い、 跳ねた水で濡れないように洗面台から体を 離して手をすすいだ。 親指と人差し指でつまむように ポケットからハンカチを取り出す。 「ふぅ…やりづらいな」 祐介は、鏡に映った自分の暗い顔を見ながら ため息をついた。 この支店に異動になってから、歳上の部下が 圧倒的に増えた。しかもかなり歳上。 正直、やりづらい。 こちらは部長としてやるべきことをやっているだけだし、偉ぶらず、しっかり敬語も使っているつもりだ。 それなのに、煩そうな顔で俺を見る。 特に佐伯さんは、明らかに俺を敵視している。 『でも俺、なんかあの人好きなんだよなぁ ツボなんだよな、あの人の言動』 思わずにんまりする。 やりにくい相手だけど、単純というか、 わかりやすいというか、憎めない。 裏表がないから、そんなに悪い人とも思えないのだ。 たまに、景気付けに部下たちを飲みに 連れて行って、地道に交流を図るか。 考えただけでも憂鬱だった。 仕事だけに専念したかった。 祐介には、仕事だけに専念できない もうひとつの理由があった。 最近、妻の行動が怪しいのだ。 ライターの仕事をしているから主に在宅ワーク。 さっきから家に電話をしているが、出ない。 引っ越してきてから、時々、一人で出掛けて いるのは知っていたが、この前、たまたま ある領収書を見つけてしまった。 発行者名に『ランデブー』という名前だけが 書かれた領収書。電話番号も住所もない。 しかし、『ランデブー』というこの名前が いかにも、人目を避ける密会の場所に おあつらえ向きじゃないか。 この街は真理子の地元らしいから、 偶然の再会でやけぼっくいになんとやら、 なのだろうか。 移動したばかりの慣れない職場で、 俺がこんなに気疲れしてるというのに、 もし浮気なんてしていたら ゆるさない。
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