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 かわいい女子というのはどこにでもいる。  思春期を迎えた男子の目に映るのはかわいい女子ばかりである。女子であればかわいく認識してしまう生命体のことを「思春期男子」というのかもしれないと、ヒサオは考えている。  なぜそんなことをしょうもないことを考えているかというと、どうも中学二年に進級してからというもの、目に映る女子が全員かわいく見えて仕方がないからだ。去年までブルドッグに似ていると思っていた宮城さんが、今はどうも愛らしいチワワに見える、気がする。なにかとデスボイスで吠えていた喜納さんが、今年はソプラノボイスで歌っている、気がする。今まで惰性で交わしていた「おはよう」のあとにハートマークがついた、気がする。  目が合う女子全てが自分に惚れているように思えるのも、「思春期男子」という生き物の習性なのだろう。去年までゴーヤーでも見るかのようにヒサオたちを見ていた女子たちの目は、なんだか妙に輝いて見える。ヒサオたち男子は「まーきー、今俺のこと見てたさ」「いや、俺さ」などとバカなことをひたすら言い合ってはしゃいでいる。  「カノジョ」という響きに憧れて、でもそれが何なのかよく分からなくて、その悶々とした気持ちに振り回されているのが思春期の男子というものだろう。  「お前、誰が好きなの?」  「え?俺?いや、お前こそ誰さ」  「お、俺は・・・。お前に言う必要なんかないさ!」  「じゃあなんで聞くかー」  というような中身すっからかんの会話を、ヒサオも友達たちと飽きもせずに繰り広げているが、正直なところ「誰が」というより「誰でも」である。女子なら思わず惚れそうになる。会話などしようものなら確実にフォーリン・ラブである。  精神的に一足早く成熟する女子たちは、そんな男子たちに冷ややかな視線を向けることもあるが、それすら熱い眼差しと勘違いし、満たされているようで満たされていないような、全てを持っているようで何も持っていないような、単純なようで複雑なような、そんな思春期全開の日々を、ヒサオは仲間たちと仲良く送っている。  ヒサオを振り回すものは思春期以外にもうひとつある。てぃーだ商店街で果物屋を営む父タケルと、タケルの親友であるアキコ、ケイスケ、ヒデシ、ユウジの五人衆である。「もうひとつ」と言ったのは、この五人は五人でひとまとめだからだ。  この五人は同じ病院で産声を上げた。誕生日も五人とも三日以内にまとまる徹底ぶりだ。「バブバブ」しか言えなかった頃から温めた親交は、中学の頃に交わした兄弟盃(親子盃の説あり)でより一層強固なものとなり、今に至る。  ヒサオは三歳の頃、母親のマイコを病気で亡くした。普通なら父ひとり子ひとりで強く生きていこうと誓うところだが、タケオには四人の“キョーダイ”がいる。当然の流れでその四人が合流し、母親(みたいな人)ひとりと、父親(を自称する人)三人が加わったというわけだ。  葬式が終わり、眠ったヒサオを抱きかかえて歩くタケルと四人は、力を合わせてヒサオを立派に育て上げると誓ったのだそうだ。  これが心温まるハートウォーミング・ドラマになるのは、五人が強く立派な大人だった場合である。クセばかり強く立派とは言い難い五人の大人たちは、大量発生した背後霊のようにヒサオの人生にへばりつき、取れない垢のようにこびりついているのである。
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