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誰にも届ける気のない歌を歌うのに、放課後の音楽室はぴったりの場所だった。
「亜香里って、歌、上手よね。もっと聞かせて」
「え、嫌ですよ」
人に聞かれたくないから、ここで歌っていたというのに。
早くどこかへ行ってくれないものか、と私は櫻子先輩を見やった。
先輩は美人だ。高校三年生で、冬服のブレザーが誰より似合っている。つやつやの長い黒髪に、白い肌。背が高くてスタイルも良い。おまけに頭も良かったりする。非の打ち所がない。
「まだ歌ってくれないの?」
「だから……」
ピアノの椅子に腰かける先輩は、女王様のような風格があった。
ピアノと黒板の隙間でごにょごにょ歌っていた私を、無邪気に見つめている。
「まーだぁ?」
先輩がピアノの椅子から、すたん、と降りた。
涼し気な目が、いたずらっ子みたいにきらきら輝いている。そうっと近寄ってきたかと思うと、ブレザーの腕を伸ばされた。
「つーれーなーいーぞぉー」
ぴっと立てた指が、頬にやさしく触れる。
この指につつかれると、どんなに気を付けていても、一瞬、自分の口元がだらしなく緩んでしまう。恥ずかしい。
悟られたくなくて、私は口元に力を入れる。
二度、三度、先輩の指が、私の頬をつつく。おちゃめな笑顔に反して、壊れ物でも扱うみたいに、優しくそっと。
私はぎこちなくそっぽを向く。
先輩の指が私の頬を追う。
十一月初めのきりっとした空気の中で、頬が熱い。触れられたところから溶けてしまいそうだ。とにかく困る。やめてほしい。
「亜香里っ! もう、本気でつれないんだから!」
先輩が後ろから抱き着いてきた。長い髪から甘い香りがする。私は、その腕を振りほどけない。
抱き着かれたまま、ぶっきらぼうな口調で話す。
「先輩受験でしょ。遊んでる暇ないでしょ」
「勉強ばっかじゃねー。図書館にずっと籠ってたら体に悪いわ。息抜きも必要なのー。人の声が聞きたくて来たのに歌ってくれないなんて、悪い後輩ね」
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