彼の言葉

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彼の言葉

 彼を好きになっていく理由。 その次は、彼の言葉だった。  恋が始まった日。 音楽室。 先に手を離したのは彼。 「この和音覚えておくよ。ありがとう」 彼は、優しく微笑んだ。 私はまだピアノから手を離せずに、彼の目を見る。 恥ずかしいはずなのに、私は彼の顔を、何気ない表情を見続けたいと思ってしまう。 「どうした?もう手、離してもいいよ」 「あ、うん。うん」 慌ててピアノから手を離し、ペダルから足も離す。 音はまだ残っている気がした。 それよりも、自分の心臓の音が聞こえてきそうだった。 「教室戻ろっか」 何気ない。 あまりにも何気ない一言。 それでも私には一大事な一言。 「戻らないの?」 ただ黙ってる私を彼は不思議そうに見つめる。  人気者の彼にとっては、一緒に教室に戻る事なんて大した事ではないはずだ。 でも私には嬉しい言葉だった。 「うん。戻ろう」 特に会話はなかった。 彼について行くように、私は彼のほんの少し後ろを歩いた。  私達の教室に近づいたところで、彼といつも一緒にいるアマトくんが教室から出てきてこっちに向かってきた。 「聞いて聞いて!ニュース!」 私は彼から離れるべきか悩んでいた。 アマトくんとの距離がまだ少しあるところで、彼は私にコソッと言う。 「うるさいでしょ。いつも教室でも騒がしくてごめんね」 と本当に申し訳無さそうな顔をした。 アマトくんは私の事をチラッと見つつも、話の続きをする。 「もう少ししたら席替えだって!」 「えっ、本当?」 「うん。先生が言ってたから本当」 二人の隣を歩く私は、周りからどう見られているのだろう。 教室までもう少しだ。 「あ!ニュースニュース!」 アマトくんは、違う仲の良い人を見つけ、その人に席替えについて伝えに行った。  私は今の後ろの端の席が気に入っていたから、席替えはしたくなかった。 「席替えしたい?」 教室まであと少し。 「私は今の席、気に入ってるから、あんまりしたくないかな」 「そっか」 あと少し。 「俺は今、一番前だから、したいかな。窓側も羨ましいけど、そういうのより、今は遠いから・・・」 もう少し。 謎の緊張感から解き放たれたい。 「遠いっていうのはさ・・・」 本当に解き放たれたいのかな。 この緊張感から。 「隣の席になれたらいいな」 なんでさっきからずっとドキドキしてるんだろう。 彼の言葉が少し遅れて届くような感覚で・・・ 「えっ?」 今、何て言った? 隣の席になれたらいいな? 「あっ、いや。気にしないで。あ、いや。気にしないでっていうかさ、まあ、せっかく今日初めて話せたから、隣の席になれたらもっと話せるかなと思って」 もう教室の前だ。 私達二人でいるところを見られたら、彼に迷惑かけないかな。 女子からも人気ありそうだし。 「うん。じゃあ、筆箱ありがとね」 右手に持ってた筆箱を顔の横で軽く振って、ようやく彼から離れようとする。 教室に入る。 なんだか切なかったけれど。 「今度!」 彼の声。 それは、今まで遠くで聞くことしかなかった声。 私は振り返る。 「また違う和音教えてよ。他の綺麗な和音」 彼を知りたいと思った。 もっと話したいと思った。 「うん。教えるね」 周りを見たけれど、誰も私達を気にしていないように見える。 みんなそれぞれ休みの時間を楽しんでいる。 いや、違う。 例え、誰がこっちを見ていようが、そんなのはどうでもいい。 きっと、そう。 「それに、私も。隣の席になれたら、もっと話してみたい」 顔が赤くなるのが自分で分かる。 私はすぐに前に向き直って、自分の席に戻った。 本当は、彼がどんな表情をしているのか確かめたくて仕方がなかった。  私が彼を好きになっていく理由。 指先の次は、彼の真っ直ぐな言葉だった。
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